木下(きおろし)河岸は、利根川と手賀沼の落堀(おとしぼり)の合流点に発達した河岸。河岸としての発達のきっかけを作ったのは竹袋村から出てきた吉岡家。吉岡家はこの木下河岸の河岸問屋として大きな勢力を、元禄の頃より明治・大正の初め頃まで持ち続けたようだ。木下河岸からは「茶船」と呼ばれる三社詣や銚子遊覧の旅人用の船が出ます(これを「木下茶船」という)。この茶船の乗船客は、食事や宿泊をする場合、河岸問屋の吉岡家を利用することになっていたという(山本忠良さんの「木下河岸と鮮魚輸送」による)。手賀沼遊覧の「さっば舟」から下りた崋山一行は、さっそく河岸問屋の吉岡家へと向かい(当時の当主は七之助)、そこで湯浴みをし、しばしの休憩をとってから、茶屋の一つで塩せんべい(十六文)を購入し、「土橋」を渡って茶船に乗り込みました。この木下茶船は長さ4間(約7mほど)の、中央に屋根がある屋根船で8人乗り。船の所有者は近在の百姓で、多くは夫婦による農閑稼ぎ。木下街道を利用して江戸方面からここまでやってきた旅人たちは、ここから茶船に乗って、三社詣(鹿島、香取、息栖の各社)や銚子遊覧などに、利根川を利用して向かいました。茶船に乗り込んだ崋山一行も、利根川筋の神崎(こうざき)経由で津ノ宮へと向かいますが、この津之宮は香取神宮へと向かうための上陸点でした。 . . . 本文を読む