文政8年(1825年)から文政9年(1826年)にかけて「飯盛女事件」に関係して登場してくる人物は、河岸問屋吉岡家当主七之助、竹袋村名主半右衛門、同村組頭五兵衛、大森代官斉藤幸五郎、押戸屋勘右衛門、布川屋嘉助、遊女の、すが、はる、ゆき、とき、さん、ふく、さく、きよ、なか、みや、すみ、志ま、たい、といった女性たち。事の発端は、文政8年の4月上旬、大森陣屋(山城国淀藩の稲葉家陣屋)の代官斉藤幸五郎が、問屋七之助などに対し、「淀では飯盛女を置いたことで大変繁盛している。この木下河岸でも飯盛女を置いてみてはどうか」と提案したことにあるらしい。それで七之助や名主半右衛門らが動いたところ、6月20日に「聞き流し」(許可の内意)があったので同23日に願書を提出。7月4日には、七之助、名主半右衛門、組頭五兵衛が江戸に出て、深川新地の百歩楼と「飯盛女」のことなどについて談合を行っています。7月20日の帰国後、まず「三喜屋」が飯盛女を8~9人置き、その後、「布川屋」、「丸亀」、「海老須屋」、「松本屋」、「新若松屋」などが次々と飯盛女を置くようになったようです。すが、はる、ゆき、とき、さん、は「新若松屋」の飯盛女たち。ふく、さく、きよ、なか、みや、すみ、志ま、たい、らは「布川屋嘉助」方の飯盛女でした。 . . . 本文を読む