鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その12

2011-05-22 05:28:54 | Weblog
 「ふれあいバス」の「六軒」バス停付近には、立派な石積みの蔵がある家があり、またまもなく左手に、屋根をブルーシートで覆った古民家も現れました。今までの道筋で、時折、屋根をブルーシートで覆った民家を目にしましたが、これは先の東日本大地震の強い揺れのために屋根瓦がずれたり外れたりしたものであるようです。

 右手奥にJR木下駅のホームらしきものが見えたので、そちらへ右折して進んでいくと、JR木下駅と駅前広場がありました(13:46)。「観光案内」があり、そこに掲載されている写真の中に、蒸気船「銚港丸」が碇泊する「木下河岸跡」というものがありました。解説には、「明治時代には小船や茶船に代わって蒸気船が周航しましたが、明治34年(西暦1901年)の鉄道の開通によって利根川水運は徐々に衰退しました」とあり、この写真は明治時代のものであることがわかります。

 また「岩井家住宅主屋(旧武蔵屋店舗)」という写真もありますが、これは先ほど、通り左手に見た屋根がブルーシートで覆われていた古民家。解説によると、江戸時代から明治にかけて木下河岸で旅籠を営むとともに、木下から東京に向けての鮮魚輸送にも関わっていたらしい。明治末から大正初めにかけて行われた利根川の堤防工事に伴って現在地に移築されたとのこと。河岸に並んでいた旅籠の様子がよくわかります。一方で、明治末からの利根川の堤防工事により河岸場の様子が大きく変貌してしまったらしいことも、この解説文からうかがうことができます。

 駅の階段を上る手前に周辺案内図と「水の駅 きおろし 歴史と文化の薫る出会いの街 未来へ繋ごう水のまち木下」という案内図があって、その案内図に、『利根川図誌』の「木下河岸 三社詣出舟之図」と、先ほど見た「銚港丸」が碇泊する木下河岸の写真、そしてその左隣に「高瀬船」の写真が掲載されていました。

 「高瀬船」の写真の解説には、次のように記されていました。

 「江戸時代に活躍した利根川の代表的な船。帆・櫓・棹いずれも使える長距離用の船で、全長10m~27m。積載量200俵~1,200俵程度。写真は大正期。」

 また蒸気船「銚港丸」の写真には、先ほどの写真の解説よりも詳しく、明治34年に建造されたもので、利根川・江戸川筋で活躍した外輪蒸気船であって、木下の吉岡氏が経営するものであったと解説が付されています。ということは、この写真は明治34年(1901年)以後のものということになる。また河岸問屋吉岡家が、外輪蒸気船「銚港丸」を所有して利根川・江戸川水運による運送業務を活発に行っていたらしいこともわかります。写っている外輪蒸気船は「第五銚港丸」であるようだ。

 「高瀬船」の写真に戻りますが、この船が木下河岸に碇泊しているものであるとすると(撮影場所はわからない)、写っている利根川の上流方向は布佐方面ということになる。手前に船の縄を繋ぐためか船側を傷つけないための杭が数本突き出ており、河岸場には杭が多数突き出ていたことがわかります。

 全体説明のところに、「大正時代には利根川の堤防工事などにより、往時の河岸の姿は失われていきます」とあり、木下河岸のかつての姿は、大正時代の利根川の堤防工事などで失われたいったことが確認されました。外輪蒸気船「銚港丸」が写る写真が、明治30年代中頃であるとすると、それ以後に、利根川の大規模な堤防工事によってこの河岸の様子は大きく変貌していったことになります。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書)
・「木下河岸と鮮魚輸送」山本忠良(『印西町の歴史 第二号』所収) 


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