『手賀沼の今昔』星野七郎(崙書房出版)によれば、浦部村新田・亀成新田・発作新田などでは、寛政10年(1798年)頃より鳥猟が始められています。鳥を獲るための網を張る場所のことを「張場(はりば)」といいますが、浦部・発作・亀成・布瀬などの各張場が手賀沼沿岸にあり、猟期は秋から冬にかけて。獲られた水鳥の出荷先は江戸千住の問屋であったらしい。もともと手賀沼沿岸一帯は水戸家の御鷹場であり、そこで獲られた鴨は、正月に将軍へ献上されるものであったようだ。この手賀沼で、鳥猟や魚を獲ったり、また藻や水草を採ったりする舟のことを「さっぱ舟」と言いました。全長は4mほど。この「さっぱ舟」は手賀沼の通い小船としても利用されていました。手賀沼沿岸で鳥猟や漁撈、また藻刈(「もくとり」)に従事したのは、浦部・発作・亀成・布瀬などの農民であったから、その「さっぱ舟」の持ち主はそれらの村の農民であり、秋から冬にかけては鳥猟に従事し、またそれ以外の農閑期には手賀沼の通い小船として「さっぱ舟」を操って、旅人や物資の輸送などに従事していたものと思われる(「農間稼ぎ」として)。木下(きおろし)街道と亀成川が交わるところ、つまり亀成橋のたもとには、そういった付近の農民が操る「さっぱ舟」が碇泊し、そこから亀成川や手賀沼を利用して、布佐などの対岸に渡ろうとする旅人などを待ち構えていたのではないか、そう私は推測しました。 . . . 本文を読む