では、木下河岸における「飯盛女」設置による商売繁盛が順調に進んでいったかというと、実はそうではなく、文政9年(1826年)にいきなり関東取締出役(八州見廻り)による一斉検挙が行われて失敗に終わりました。近在から多くの男たちが集まるようになって風紀上の問題が生じるようになったり、他の宿場などからお客を取られるようになったことによる苦情が多発するようになったりしたことが、その関東取締出役による一斉検挙が行われた理由だと思われます。では旅籠に置かれていた多くの「飯盛女」たちは、その後、どうなったのだろうか。ふたたび新吉原に戻っていったのか。それとも他の遊郭地に散らばっていったのか。「たけ」「かめ」「すが」「はる」「ふく」「さく」「きよ」「志ま」など、竹袋稲荷神社の常夜燈に寄進者として名前を連ねている女たちのその後がどうであったのかは、もちろん記録には何も残されていません。 . . . 本文を読む