登山道の左手に見えるよく茂った山に、新しく切り倒された木が皮の向けかけた白い肌を出しており、夢二はそれを美しく思う。たまきはというと「もう何時でしょうねえ」と、いつもに似ず、夢二に問い掛ける。二人とも時計を持っていないから、今が何時かわからない。砂の道はずいぶんと長く、ようやくのことで「第一の仕度所」に到着。そこでは茶と駄菓子と草鞋(わらじ)を売っていました。登山口から馬返しの間には、大柳と一里松という二つの休憩所があったという。「第一の仕度所」とは、そのいずれかであったと思われます。やがてそこを出発すると、間もなく林になり、林に入ると道は険しくなって、たまきは時々ストロベリーを食べるために草の上に寝転びます。夢二自身もかなり疲れてきたものの我慢してここまで歩いてきたたけれど、足弱のたまきを連れて暮れないうちに七合目までこのまま歩いていくのは困難だと判断して、途中で二頭の馬を雇うことに。「中食(ちゅうじき)」というところで昼飯を食べ、またふたたび馬に乗って、栂(とが)や白樺の多い林の中の落ち窪んだ道を進み、「駒返し」に到着します。ここで馬から下りた二人は、ふたたび金剛杖にすがって、細くなった山道を緩(ゆる)い歩調で登っていきました。 . . . 本文を読む
鉄道馬車の車窓から眺めた景色の描写も興味深いものですが、これについては割愛します。二人の乗った鉄道馬車は、「霧が全く晴れた頃」須走停車場に到着。新橋~須走間はおよそ12km。ということは、二枚橋の「福田屋」の前からはおよそ10キロメートル余の距離。鉄道馬車は、「テトウ、テトウ」と時々笛を鳴らしながら、富士山のすそ野を2時間近くゆっくりと走ってきたのです。この須走停車場があったところは、現在の下本町の富士急行バス停の前あたり。ここで馬車を降りた二人は、須走浅間神社へと向かっていますが、ということは、須走宿の家々を両側に見ながら、足柄道(真ん中を鉄道馬車の軌道が走っている)を浅間神社の杜の方に向かって歩いたことになる。この道の両側には、今も須走の御師たちが営んでいた旅館がいくつか近代的な装いで残っています。街道が宿場を突っ切って左折するところに、須走浅間神社があり、二人はその境内へと入っていき「形ばかりに」参詣。スケッチ帖の初めに朱肉の印を捺(お)してもらい、賽銭(さいせん)を投ずると、白衣の神主が太鼓を鳴らして簡単な祝詞(のりと)をあげてくれました。その本殿前から左へ進むと、境内の鬱蒼とした杉木立を抜け、ふたたび鉄道馬車の軌道のある足柄道に合流しますが、そこが須走口登山道の入り口となる。現在はそこには駐車場(宮上駐車場)や「あさま食堂」がありますが、当時は駐車場はもちろんなく、茶屋のようなものがあったのかも知れない。篭坂峠方面へ延びる足柄道(旧鎌倉街道)と、それに沿って延びる鉄道馬車のレールを突っ切るようなかたちで二人は登山道へと入っていきました。この年の7月、夢二が初めて富士登山をしたのは御殿場口からで、強力(ごうりき)も連れており、道連れも多かったのが、この須走口登山道は二人以外に一人も登っていく人の姿が見えない。その人気(ひとけ)のない登山道を夢二とたまきの二人は登っていく。「砂の多い、歩き難い路が長く続」きます。巡礼姿のたまきは、「ストロベリーを食べる」と言っては、「草の上に寝ころんで休み休み」する。ゆるやかではあるけれども延々と続く「砂の多い、歩き難い」道に、早くもたまきは疲れてきたのです。現在の「ふじあざみライン」は舗装されていますが、当時の須走口登山道は、黒い砂礫(されき)が堆積した、踏み出すごとにジャリジャリと沈み込むような道であったのです。 . . . 本文を読む
翌8月15日の朝、夢二がふと目を覚ますとすでにたまきは起きており、「麻の葉の浴衣」に「印度茶の細い帯」を締めて、登山に携行する絵具箱の中の水筒に水を注いでいました。障子を夜通し開けていたためか、ひんやりとした高原の空気が部屋の中に漂(ただよ)っている。蒲団の上から夢二が、「まあちゃん、乙女峠を見たかい」と声を掛けると、たまきは、「えゝ、一面の霧よ」と答えて、浴衣の前をかきあわせて立ち上がり、中窓を開けました。乙女峠あたりの山々も周囲の山々も、一面の霧のために何も見えはしない。たまきが「あら!」と驚いて障子を閉めました。青い蛙(かわず)が、中窓から入ってきたのです。その青い蛙は、夜具の上を飛び越えて縁側へと出ていきました。床を出た夢二は、夜明け方の薄明かりの中で、たまきとともに朝飯を食べました。朝食を終え、登山の仕度を済ますと、遠くから「馬車の笛の音」が聞こえてきます。この「馬車の笛の音」とは、御殿場馬車鉄道の馭者(ぎょしゃ)が鳴らすラッパの音。「テトウ、テトウ」という音だったから、人々はこの鉄道馬車のことを「テト馬車」と言いました。『ごてんばの古道』(御殿場市立図書館古文書を読む会)によれば、夢二がたまきと泊まったところは、二枚橋にある「福田屋」という旅館。この旅館は、現在の御殿場農協御殿場支所の隣にあったという。この御殿場鉄道の始発駅は新橋停車場で、東海道線(現在の御殿場線)御殿場停車場の前の通りを少し入った右手にありました。二枚橋は、その新橋停車場と御殿場停車場の間にありました。新橋停車場を出た鉄道馬車の馭者がラッパを鳴らしたわけですが、その「テトウ、テトウ」という音を耳にした夢二は、先に金剛杖をついて軌道の延びる通りに出て、たまきが出てくるのを待ちました。たまきは宿の老婆に送られて、まるで巡礼のような装束で出てきました。一頭立ての鉄道馬車は二人の前に停まり、馬車の窓を通して老婆が「おしずかにお山をなさいませ」と車内の二人に声を掛けたということは、鉄道馬車は二枚橋の旅館「福田屋」の前の通りで停まったということ。停車場ではなくとも、お客がいれば鉄道馬車は途中で停まることがあったということでしょう。鉄道馬車に乗った二人は、須走停車場へと向かいます。まず須走の浅間神社に参詣し、それから須走口登山道に取りつくためでした。 . . . 本文を読む
1909年(明治42年)8月14日の午後、竹久夢二と岸たまきの二人は、御殿場の旅館の窓から乙女峠を眺めています。長年富士詣の善男善女を案内する駕籠屋の親爺(おやじ)から、「乙女峠に綿帽子のような雲がかかって、あたりの山が鮮やかに見られたら、明日は雨と思わっしゃい」と教えられていた夢二は、明日は雨かどうかを判断するために、たまきと一緒に乙女峠の方角を望んでいるのですが、峠に綿帽子はついにかからずに、峠は「フランス青」に暮れていきました。明日は雨が降りそうではないことを確認した二人は、枕許へ新しい金剛杖や菅笠、それと絵具箱を置きました。なぜかといえば、富士登山を決行するためでした。夢二と一緒に御殿場の旅館に宿泊している岸たまきは、その年の5月に協議離婚したばかりの夢二のもと妻。加賀藩士の娘で、生まれも育ちも金沢。一度結婚して二人の子どもが生まれたものの夫がチフスで死亡し、東京に出て、早稲田鶴巻町で絵はがき屋を開店して間もなく、訪れた夢二と知り合いました。夢二は、絵はがき屋の店の奥にいる、目が大きく、鼻筋の通った、絵のように美しいたまきに魅せられます。婚姻届が出されたのは明治40年9月16日。その翌年2月には、長男虹之助が生まれています。しかしたまきは、育ちの故もあってか、家事も子育ても十分にできず、夢二の父である菊蔵は嫁としてたまきを認めなかったようだ。協議離婚をしてから、たまきは九州へ旅行し、夢二は富士山の見える御殿場を訪れて、そこで避暑生活を送っていました。しかし夢二はたまきを忘れることができない。「やっぱりどうかして新しい刺激のなかに生きるか、或は曾(かつ)て知らぬ別な空気の中に住むで」見ようと思った夢二は、たまきを富士登山に誘ったのです。たまきはその誘いに応じ、御殿場駅に下り立ちます。そのたまきを御殿場駅で迎えた夢二は、旅館にたまきを案内し、そして8月15日に2度目の富士登山に出発します。今度はたまきという「もと妻」と一緒。二人が選んだ登山道は、須走口登山道でした。私はこの二人が登った須走口登山道を、以前から一度歩いてみたいものだと思っていましたが、この夏、ようやく実現することができました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
1861年1月15日(安政7年12月5日)の夜、ヒュースケンはプロシア公使オイレンブルクの滞在する赤羽根接遇所から、アメリカ公使館である麻布の善福寺に帰るために、3名の騎馬の役人と提灯を下げた4名の徒士とともに、馬に乗って闇夜を進んでいました。その一行は、途中でいきなり両側から襲撃を受けました。まず役人たちの乗った馬が斬りつけられ、ヒュースケンはその両脇腹を斬りつけられました。負傷したヒュースケンは、馬を全力疾走させましたが、200ヤードほど走ってから、大声を上げて役人たちを呼び、負傷して死にそうだと言ってから落馬しました。暗殺者は7名。ただちに彼らは逃げ去りました。ヒュースケンは午後9時半頃に赤羽根の接遇所に運ばれ、外科医による手当てが施されましたが、その日の深夜、16日の午前零時半に死亡しました。以上は、ハリスのアメリカ国務省宛て報告書にもとづいたもの。ヒュースケンの葬儀が執り行われたのは、18日(安政7年12月8日)のこと。日本人の幕府側高官の会葬者は、新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守・高井丹波守・滝川播磨守の5名。ヒュースケンの遺体の入った棺は、アメリカ国旗で包まれ、オランダ海兵隊員8名で担われました。日本教区長ジラール神父(パリ外国宣教会の宣教師であった)が呼ばれているということは、ヒュースケンはプロテスタントではなくカソリックだったのだろうか。喪主であるオランダ総領事のデ・ウイットとアメリカ公使ハリス、イギリス公使のオールコック、フランス公使のド・ベルクール、プロシア公使のオイレンブルクなど錚々たる面々が顔をそろえていました。このヒュースケンのお墓は、東京都港区南麻布の光林寺にあるといい、ベアトはそのヒュースケンの墓を写真に撮っています(『F.ベアト写真集2』P39右下)。 . . . 本文を読む
『ヒュースケン日本日記』の江戸滞在の部分を、通して読んでみても、ハリスやヒュースケンの外出はかなり限られていて、自由に江戸市中の見学ができるものではなかったことがわかります。やはり幕府側の警備の問題があったようで、馬に乗ってあちらこちらへと見物に出掛けることはできなかったようです。もちん徒歩であちこち歩き回るということもできない。たまに江戸名所の見物に出掛けるといっても、多数の武士が警護する「乗物」(高級駕籠)に乗って目的地まで行き、そこから警護を受けながら歩いてわずかばかりの見学をしたようです。まさに、あの江戸城内におけるように「大名」待遇であったのです。 . . . 本文を読む