鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その4

2010-08-20 08:25:29 | Weblog
『旧事諮問録』には、たとえば次のような記述があります。「以前日本橋の肴(さかな)商から無代にて肴を毎日御台所へ持ってまいるので、不漁のときは難儀であると内々苦情を申していたそうでありますが、御維新後に聞き質(ただ)しますと、それだけの恩顧があるので、何千坪とかを無賃で貸し与えてあったそうで、その代りに肴を取られたのであるということでありました。」(上・P54)。ここには「補訂」があって、「無代価にはあらず。時の多少にかかわらず、定価のありしなり。もっとも安廉なる事、例えば鰹一本三百文というが如し。」とあります。これを読むと、日本橋の魚問屋が、毎日、新鮮な魚をきわめて安い値段で「御台所」へ持ってきたということになります。ではその魚は誰によって運ばれ、どのようなルートで本丸内に運び込まれたのか。大奥については、次のような記述があります。「問 買物はどうして買いますか」「答 御広敷には呉服屋でも何でも好きのものがまいります。また部屋方へは商(あきない)をする婦人が出るので、それが幾日も泊っていて商をするのでございます。反物でも何でも、自由でございます。」「問 それは、どういう身分の者ですか。」「それは、町屋の家内や何かでございます。皆よい所の者ではございませぬ。中から以下でございます。部屋方に通手(つて)を求めて出て来るのでございます。」(上・P192)。この記述によると、大奥の場合、「広敷」に呉服屋とかいろいろの商人がやってくるし、「部屋方」へは商いをする女性(町人身分の者)が伝手を求めて大奥に入って来て、反物や何やを泊りがけで売っていたということになります。また「平川献上」という言葉が出てきますが(上・P76)、ご婚礼などの際の大奥への献上物は、「平川門」(大奥・不浄向きの出入り口)を通して、大奥に運び込まれたという。大奥の場合は、「平川門」を利用してさまざまな生活用品や生活物資などが運び込まれたようであり、おそらくゴミや糞尿、あるいは死体なども、この門を通して外部へ運び出されたように推測されます。大奥の場合、城内と城外を結ぶ出入り口は、「平川門」であったようだ。では、「表」や「中奥」の場合は、どうであったのか。 . . . 本文を読む