「駒返し」で馬を下りて登っていくと、下山の人々としばしばすれ違うようになりました。その中には美しい女性もいる。夢二はその人たちと何か話を交わしてみたいと思ったものの、その人たちはさも疲れたような、そして気むつかしい顔をしていました。美しいその女性さえも、二人を険しい目で一瞥(いちべつ)して過ぎていきました。登山道はいよいよ険しくなり、森は深くなり、古い倒木が現れたりする。そしてハラハラと雨さえ降ってきます。間もなく美しい樹林地帯が尽きて、「驚くべき怪物の背のよふな、富士の嶺が眼前に」広がりました。赤褐色の大粒の砂と小石の間には、アザミに似た少し大きな草の花がちらばらに生えているばかりで、そのほかには何も生えていない。そして膨大な富士の山腹が、横雲を斜めに切って空間に聳(そび)えています。しかし山頂や麓は雲のために全く見えない。夢二とたまきは、わずかに踏み跡のある道をたどって、上へ上へと登っていきました。その途中、いきなりたまきは賛美歌を歌いだし、そしてまた二人は「古い歌」を低い声で声を合わせて歌う。やがて岩の間に雑草が叢生(そうせい)したところへ出ると、雲間から富士山の頂上が見え出しました。そこから麓を見下ろすと、先ほど通ってきた森が藍色に見える。岩の間には、名も知らぬ花が、色とりどりに咲き乱れていて、それを見て、「まーあ…神さまの御苑のようだわねえ」とたまきが感嘆の声を上げました。美しい樹林地帯を抜けた二人は、まず富士の広大な山肌が見える潅木地帯へ入っていったわけですが、この潅木地帯へ入って行く辺りが古御嶽神社の上あたり、つまり現在の五合目から上のあたりということになります。そこからさらに登って森林限界を越えたところ、いわゆるスコリア(火山噴火物が堆積した砂礫地帯)で夢二とたまきが見た花は、ゴゼンタチバナやオダマキ、あるいはヒメシャジン、オンタデなどの高山植物の花であったと思われます。 . . . 本文を読む