鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その1

2010-08-06 07:23:24 | Weblog
1909年(明治42年)8月14日の午後、竹久夢二と岸たまきの二人は、御殿場の旅館の窓から乙女峠を眺めています。長年富士詣の善男善女を案内する駕籠屋の親爺(おやじ)から、「乙女峠に綿帽子のような雲がかかって、あたりの山が鮮やかに見られたら、明日は雨と思わっしゃい」と教えられていた夢二は、明日は雨かどうかを判断するために、たまきと一緒に乙女峠の方角を望んでいるのですが、峠に綿帽子はついにかからずに、峠は「フランス青」に暮れていきました。明日は雨が降りそうではないことを確認した二人は、枕許へ新しい金剛杖や菅笠、それと絵具箱を置きました。なぜかといえば、富士登山を決行するためでした。夢二と一緒に御殿場の旅館に宿泊している岸たまきは、その年の5月に協議離婚したばかりの夢二のもと妻。加賀藩士の娘で、生まれも育ちも金沢。一度結婚して二人の子どもが生まれたものの夫がチフスで死亡し、東京に出て、早稲田鶴巻町で絵はがき屋を開店して間もなく、訪れた夢二と知り合いました。夢二は、絵はがき屋の店の奥にいる、目が大きく、鼻筋の通った、絵のように美しいたまきに魅せられます。婚姻届が出されたのは明治40年9月16日。その翌年2月には、長男虹之助が生まれています。しかしたまきは、育ちの故もあってか、家事も子育ても十分にできず、夢二の父である菊蔵は嫁としてたまきを認めなかったようだ。協議離婚をしてから、たまきは九州へ旅行し、夢二は富士山の見える御殿場を訪れて、そこで避暑生活を送っていました。しかし夢二はたまきを忘れることができない。「やっぱりどうかして新しい刺激のなかに生きるか、或は曾(かつ)て知らぬ別な空気の中に住むで」見ようと思った夢二は、たまきを富士登山に誘ったのです。たまきはその誘いに応じ、御殿場駅に下り立ちます。そのたまきを御殿場駅で迎えた夢二は、旅館にたまきを案内し、そして8月15日に2度目の富士登山に出発します。今度はたまきという「もと妻」と一緒。二人が選んだ登山道は、須走口登山道でした。私はこの二人が登った須走口登山道を、以前から一度歩いてみたいものだと思っていましたが、この夏、ようやく実現することができました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む