鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その6

2010-08-22 06:29:25 | Weblog
『江戸の二十四時間』は、いろいろな階層の人々の一日を、きわめて具体的に記述したもの。その中に「「将軍・家慶の裏表二十四時間」というのがあり、天保12年(1841年)4月15日の一日の将軍家慶の生活を追ったもの。その記述の中に、参考となる箇所が随所に出てきます。たとえば、「御台所や、それに準じる貴婦人たちの大便所は将軍の大便所のようにいちいち掃除することはなかった。万年と名づける深さ数間もある深い井戸が掘ってあって、使用者の一代の間、汲出すことはなかったという。」「中の口(は)…用向きで臨時に招集された下級旗本や、控所のない諸藩の役人たちも、みなここから出入りする。御用達商人たちも、ここまでは御用を聞きに入ってこられる。」「御鈴廊下の地下には、交差するように東西に胎内くぐり(トンネル)が掘られていた。御庭方と称する庭職人が通るためのもので、石段を下りると高さ六尺ぐらいもあり、立って歩けるものだったという。」「女中衆の出入口は長局の東南に当るところに七ツ口というのがあって…奥女中の買物口にもなっていて、土間に丸太の高い匂欄(てすり)があり、御用達商人が詰めている。彼女たちは部屋からいちいち切手を貰って御広敷役人に示し、宿下りや、市中への用事に出ていくのである。」これらから、御用達商人たちは表においては「中の口」まで、大奥では「七ツ口」まで入ることができたことがわかるし、庭職人が大奥へ入ることがあり、また大奥の女中衆は許可を得れば、大奥の七ツ口から平川門を通って江戸城外へ出ることができたことがわかります。御台所(みだいどころ)などには「万年」という一代ずっと汲み取りなしの便所が用意されていたことも。しかし、日々相当に多く必要としたはずの食材や、日々生ずるゴミや糞尿がどのように城外へ出されたのか、またそれらを担った商人(御用達商人か)や人夫たちはどういう人々であったのか、といったことについての具体的な記述は見られない。史料が残っていないことも考えられる。また残念なのは、参考文献がいっさい記されていないこと。参考文献が記されていれば、それは私たちにとって大いに参考になるはずですが…。大名屋敷については、江戸城と違って具体的にわかる本がありました。それは『大名屋敷の謎』安藤優一郎(集英社新書)。それによって、尾張藩江戸屋敷の「汲み取り」がどのように行われていたかがわかります。 . . . 本文を読む