鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その5

2010-08-21 07:09:00 | Weblog
『江戸城の見取り図』によれば、将軍や御台所(みだいどころ)の食膳、夜勤明けの役人たちの朝食などを用意するために、江戸城中には台所が、表、中奥、大奥のそれぞれに設けられていたという。表については、「台所門」の手前に大きな井戸があり、門を潜ると「石の間」といって床に石が敷かれているところがあり、そこで、運び込まれた野菜や魚などが取り扱われました。その「石の間」を経て奥へ進むと、そのあたり一帯に、台所、賄(まかない)所、膳所などがあり、そのうち賄所は、台所へ魚や野菜を供給するところでもありました。この表台所では、宿直明けの目付や側衆や小姓、掃除衆などの朝食を用意するばかりか、朝から出仕する本丸勤務の役人や登城してくる大名たちの朝食も仕度した、と記されています。中奥には、将軍専用の調理場である「御膳所」(中奥台所)がありました。大奥の場合は、御広敷御膳所というのがあり、そこは井戸つきの板の間で、広さは200坪もあり、中央にかまどが6個あってそこで煮炊きをしたという。この御広敷御膳所で大奥の料理を作るのは男たちであり、そこで働く男たちは御膳所御台所頭をはじめとした役人たちや下男たち、合わせておよそ140人に及んだとある。この「御広敷(おひろしき)」で働いているのは、約300人の幕府の男性役人であり、大奥の事務、建物などの修繕、御台所(みだいどころ)が使う物品の調達、警備などに当たったと記されています。大奥に男たちの働く空間があったわけですが、したがって、この御広敷のまわりは壁があって、大奥へは勝手に出入りできないようになっていたとのこと。大奥御殿への出入口は、御広敷にある御玄関の奥の「御錠口(ごじょうくち)」であり、したがって御広敷の警備は厳重であり、その警備を担当していたのは「広敷伊賀者」と呼ばれる男たちでした。御広敷台所で出来上がった料理は「御錠口」まで運ばれ、そこで奥女中に渡されたという。広敷役人には、「広敷用達(ようたし)」という役職があり、それは、大奥で使う物品を出入りの商人から調達する仕事を行っていました。大奥には住み込みで働く女中たちが1000人ほどはいたという。その多数の女中たちの食事は、長局(ながつぼね)の各部屋に台所が設けられ、板敷の上にかまどが置かれており、それぞれの部屋で仕度をするのが基本であったという。 . . . 本文を読む