鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その16

2015-06-25 05:25:46 | Weblog
「長沢」、「萩」と記してある風景スケッチはどのあたりを描いたものだろうか。岡崎市から豊川市に入ると、北方向に京ケ峰という山があり、その南麓が長沢町で、その長沢町の東側に萩町があります。このスケッチに描かれる中央やや左側の山は京ケ峰であり、右側奥に描かれる山は額堂山であるかも知れない。中央の丘の向こう側には東海道と宿場らしきものが描かれており、その丘の両側にその家並みが続いていることがわかります。高札場のようなものも描かれており、この宿場らしき家並みは、位置的に見て赤坂宿ではないかと絞られてきます。この絵で最大のポイントとなるのは、中央の小山の頂きに建てられている四角い石碑のようなもの。私は赤坂宿でそのような場所を探してみましたが見つけることはできませんでした。ただ気になったのは、関川神社(かつては弁財天)の境内にあった芭蕉句碑で、現在のものは明治になって再建されたものですが、旧碑は宝暦元年(1751年)に建立されたものであるという。崋山は、伊良湖村でも藤川宿でも芭蕉の句碑に立ち寄っており、芭蕉の俳句や芭蕉句碑については若い時から関心を持っていました。このスケッチに描かれた石碑のある小山は、東海道の南側にあり、崋山はこのスケッチをその小山の南側から北(北々西)方向を眺めて描いています。つまり東海道からわざわざ外れた地点から、石碑のある小山を中心に赤坂宿らしき家並みを描いているわけで、そこまでわざわざ寄り道をしたというからには、よほどこの石碑に関心を持っていたと言わなければなりません。つまりこの小山の頂きにある石碑は、宝暦年間に建てられたという芭蕉句碑ではないか、という推測が成り立ってきます。しかし現在の関川神社境内には、そのような小山はありません。旧碑は別のところに立っていたのではないか。それは赤坂宿を見下ろし、遠く京ケ峰や額堂山などを見晴るかすことができる小高い丘の上にあり(もし私の推測が正しければ)、その場所を崋山はスケッチしたのではないか。では現在の石碑、そして旧碑に刻まれている芭蕉の句とは何かと言えば、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」でした。芭蕉が詠んだ句の「夏の月」が見える赤坂宿の高台に、赤坂宿およびその周辺の俳諧仲間が宝暦元年(1751年)に建てた芭蕉句碑(旧碑)を、崋山は赤坂宿とともに描いたのではないか、と私は考えています。 . . . 本文を読む