鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その12

2015-06-18 05:08:11 | Weblog
八ツ面山は男山(標高67.4m)と女山(標高39m)からなり、男山では古くから「雲母」(うんも、きら、きららとも読む)の採掘が盛んに行われ、かつては朝廷にも献上され、また江戸時代においては西尾藩の専売品にもなっていたという。雲母を採掘した坑道はかつては多数あったが、事故等により、現在は一本だけが保存されているとのこと。久麻久神社には立ち寄りましたが、その雲母坑は山の上の方にあったのかも知れません。八ツ面山は「雲母山」「吉良山」とも言われ、久麻久一族が雲母の採掘を行っていたらしい。雲母は古くは婦人病や頭痛の医薬として用いられ、江戸時代には屏風や襖の装飾材料とし使われたということですが、「雲母摺り(きらずり)」というのがあって、料紙装飾や浮世絵版画の技法の一つであったという。浮世絵版画の場合、版木に糊(のり)や膠(にかわ)をつけて紙に摺り、その上に雲母の粉をふるいかけて、乾いた後に残りの粉を払い落とすというもの。版画の技法の雲母摺りは、金粉や銀粉をまぶしたようなきれいな背景が表現でき、写楽や歌麿を特徴づけるものであるとのこと。崋山も、この「雲母摺り」については画家として当然知っていたものと思われます。その雲母が西尾藩の専売品であり、八ツ面山はその産出地であり、また「吉良」の地名は「雲母」(きら、きらら)から来ているということも知った可能性は十分にあるのですが、日記には、「八面」の山のスケッチはあっても、雲母に関する記述は何もありません。この西尾藩の専売品(特産物)である雲母は、平坂道(へいさかみち)を平坂湊へと運ばれ、そこから船で江戸へと運ばれたと思われますが、その流通等については今のところよくわかりません。 . . . 本文を読む