鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その16

2015-06-25 05:25:46 | Weblog

 「本宿陣屋跡と代官屋敷」と記された案内板によると、このあたりを支配していたのは旗本柴田家(柴田勝家の子孫)で、その知行所支配のため本宿村に陣屋を設け、以来明治になるまで存続したとのこと。

 柴田勝家の子孫が江戸幕府の旗本となっていたことは、ここで初めて知りました。

 私の生まれた福井市は、柴田勝家が城主である北の庄城があったところです。

 陣屋代官職は冨田家が世襲。

 現存の居宅は文政10年(1827年)の建築であるという。

 案内図を見ると、右折した突き当りが旧陣屋跡(現病院)で、その突き当りを右折した左手に「旧代官宅」があることがわかります。

 病院は「冨田病院」で、「カフェ木南舎」がその1階にあるらしい。

 代官であった冨田家の居宅は、白壁の土蔵を持つ歴史の年輪を重ねた屋敷で、背後には大きなクスノキが枝葉を豊かに繁らせていました。

 「木南舎」は、その「楠」に由来していることを知りました。

 代官屋敷と陣屋跡を確かめた後、東海道に戻ってすぐに、電柱に「法蔵寺↑」と記された案内標示があるのを見つけました。

 橋(法蔵寺橋)を渡って右手にあったお寺が法蔵寺でした。

 案内板によると、このお寺は、浄土宗西山深草派の三河三壇林の一つで、古くは法相宗、真言宗のお寺であったらしい。

 佐久島の崇運寺がやはり浄土宗西山深草派でした。

 江戸時代には、東海道に接していることから参詣者も多く、かつ幕府の庇護も厚かったために、大いに権勢をふるったとのこと。

 家康が、幼時、このお寺で勉学をしたとされ、徳川家ゆかりの宝物が多く残されているという。

 また別の案内板によると、僧行基の開創と伝えられている、とありました。

 松平初代親氏(ちかうじ)が深く帰依したらしい。

 また、「境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています」とも記されていました。

 なぜ、近藤勇の首塚がここにあるのか、といった説明は何もありません。

 (これは私としても、興味あることでしたが、そのことに関する説明は何もなかったので、結局わからずじまいに法蔵寺をあとにすることになりました。)

 「御草紙掛松」(おんぞうしかけのまつ)という案内板も門前にありました。

 案内板によると、寺伝では、この松は家康手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきたとのこと。

 しかし虫害によって枯れてしまったため、四代目の松が植樹され、現在の松はその四代目の松であるということでした。

 崋山一行もこの法蔵寺門前を通過しているはずですが、境内に入ったかどうかはわからない。

 門前の茶屋で休憩をして、名物の「法蔵寺団子」(醤油を付けてあぶった串餅)を賞味したかも知れません。

 日記で気になるのは、「三河双紙」という語句が記されていること。

 これは「御草紙掛松」と、関係があるのだろうか、ないのだろうか。

 崋山が記した「三河双紙」が何を指すのか気になるものの、今のところ、よくわかりません。

 法蔵寺境内を見学した後、東海道へと戻り、左手に「観世音菩薩」と刻まれた石造物や「磯丸みほとけ歌碑」や長沢城跡、また各所に秋葉山常夜燈などを見ながら、赤坂宿へと入りました。

 赤坂に入ると、右手に「よらまいかん」という施設と、その奥に「音羽生涯学習会館」があってその2階に「赤坂宿場資料室」があり、それらの展示パネル等によって、東海道赤坂宿のあらましを知ることができました。

 

 続く

 

〇参考文献

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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