鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その11

2015-06-17 05:09:18 | Weblog
「吉良道」は、吉田~萩原~雑役免~上横須賀~木田~寺嶋~黄金堤~善明~駒場~貝吹~高須北~上地~馬頭~蓑川~藤川というコース。一方「平坂道」(へいさかみち)は、平坂~熊味~江原橋~駒場~平原~須美~桐山~深溝~蒲郡というコース。「吉良道」と「平坂道」は駒場で交差することになります。「平坂道」の終点は平坂湊であり、ここは西三河各藩の年貢米の積み出し港でした。また平坂湊は木綿の積み出し港でもありました。平坂廻船や高浜廻船は田原藩の廻米御用を行っていたから、平坂の廻船問屋や高浜の廻船問屋は、田原藩と深い関係があったものと思われます。また三河国から江戸への木綿は、平坂湊からの積船しか認められておらず、それ以外は白子に回送し、白子から江戸に送られたという(以上、「十八世紀の平坂湊・大浜湊と三河の廻船」曲田浩和〔『愛知県史研究 第9号』所収〕による)から、平坂湊は年貢米および木綿の積み出し港として極めて重要な港であったことがわかります。「八ツ面山」は、この平坂道の熊味と江原の間の北側に位置し、崋山が描いた「八面」というスケッチにおける山の形状により、崋山が八ツ面山南側の平坂道を歩いたことは確実であり、なぜ、崋山一行が吉良道から西へと外れて、八ツ面山の南側を通過した(遠回りした)のか、その理由はよくわかりません。『三河の街道と宿場』大林淳男・日下英之(郷土出版社)によれば、この八ツ面山では雲母(きらら)が採掘されており、それは西尾藩の専売品であったという。「吉良」は「雲母の庄」から来ているらしいことは、前に触れたことがあります。西尾城下から東海道藤川宿まではおよそ五里の道程。5時間はかかることになり、八ツ面山付近を午後5時頃に通過したとすれば、ここから藤川宿へ向かうことは断念せざるを得なかったでしょう。 . . . 本文を読む