鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その11

2015-06-17 05:09:18 | Weblog

 「六万石くるりんバス案内」の「八ツ面住宅前」バス停を通過して、八ツ面山中腹にある久麻久(くまく)神社の社殿前に至ったのが6:17。

 社殿には「久麻久神社」と記された扁額が掛かっています。

 「式内 久麻木神社」と記された案内板によると、「所在地」は「西尾市八ツ面町麓七七番地」で、「祭神」は「大雀命(おおさざきのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・熱田大神(あつたのおおかみ)外六柱」。

 創建年代は明確ではないが、延喜式神名帳所載の古社で、近郷十七か村の惣氏神として崇敬されていたという。

 旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連(くまくのむらじ)一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社であるとのこと。

 もともとは異なるところにあったが、徳川家康が家臣の鳥居元忠に現在地へ奉遷させたと伝えられているという。江戸時代は「荒川大宝天王宮」と言われていたらしい。

 本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財になっているとのこと。

 その本殿の左手に「雲母山碑銘」と記された木製の標柱が立っていました。

 「雲母」の採掘が行われていたことについて、何か記されたものはないかと探してみましたが、何もありませんでした。

 神社から下って行く途中に、「八ツ面焼窯跡」と記された案内板があって、文政八年(1825年)頃に常滑で甕作りを修業した加藤八右衛門によって、八ツ面山南麓に開かれた窯があったことを知りました。

 天保年間には、瀬戸や常滑で技術を学んだ長男熊蔵によって、轆轤(ろくろ)を用いた釉薬陶器の製作が達成されたという。

 崋山がこのあたりを通過した時、八ツ面山南麓では釉薬陶器の製造が行われていたらしいことを知ることができました。

 「八ツ面南」交差点から北西へ進んで県道479号に交わったところで右折。

 この道を崋山一行が進んだかどうかは分かりませんが、この道を岡崎方面へと進んで、途中で右折して高須北へと向かうことにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・「十八世紀の平坂湊・大浜湊と三河の廻船」曲田浩和(『愛知県史研究 第9号』愛知県)

・『三河の街道と宿場』大林淳男・日下英之監修(郷土出版社)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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