某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

閻魔様とキリスト

2010-08-19 14:41:35 | ぼやき
 ちょっとした事情で長くブログをかけずにいました。やっと再開できます。また読んでください。
 
 8月9日のテレビでしばらくぶりに長崎の平和祈念像を見た。北村西望さんのあのたくましい像を見ると、私はヴァチカンの壁画を思い出す。プロレスラー並みに若くたくましいキリストが最後の審判を下している図だ。多くのものがあそこから地獄に落とされる。あの図を背にして教皇が立つ。一番先に断罪されるのは教皇だというミケランジェロの怒りが目に見えるようだ。
 あのたくましいキリストと長崎の像は雰囲気が非常によく似ている。並べてみれば、立ったり座ったり、お顔も違う、となるが、伝わってくるものは同じだ。彫刻の専門家に何度もこの両者の類似性をどう考えるか聞いているのだが、納得できる答えを聞いたことがない。
 閻魔様は毎日大勢の亡者をさばき、多くのものを地獄に落とす。最後の審判の時のキリストと同じだ。しかし、人間を無間地獄に落とすなんてのは一番罪の深い行為だ。だから、一番処罰されねばならぬのは閻魔様。毎日、ある時間になると、それまでおとなしくしていた赤鬼、青鬼、亡者らが一斉に立ち上がって閻魔様を押さえつけ、ドロドロに溶けた灼熱の銅を口に流し込む。五臓六腑は焼けただれ、閻魔様は凄まじい苦痛にさいなまれる。それを日に三回やられる。たまったもんじゃない。だから、閻魔様の願いは唯一つ。人間が立ち直って、地獄に落とされるような悪事をしないようになること。そうなれば、毎日三回の激痛から閻魔さまは解放される。
 キリストも激痛にさいなまれ、父を恨む言葉を発して死んだが、甦った。(最後の言葉 エリ エリ ラマ サバクタニ。恵理子という学生が試験答案の最後にそう書いて余白を埋めたが、甦りは不可能だった。)
 キリストも閻魔大王も人間の罪のために死の苦しみを味わい、人間の立ち直りを心から願っている。こう考えてみると、全く縁もゆかりもないようなこの両者が一つに見えてくる。悪いのは人間、しかし、平安を願うのも人間。キリストや閻魔様に苦痛を与えるのも、人間。あの二人が願う人間の立ち直りは可能なのだろうか。
コメント (4)
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