某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

わかもと と 近衛文麿

2013-03-19 07:54:46 | ぼやき
 先日久しぶりに鎌倉に行った。桜にはまだ早かったが、小町通りの古書店で白崎秀雄『当世畸人伝』中公文庫1998年というちょっと変わった本をみつけた。「長尾よね」という人が最初に取り上げられていて、近衛文麿の連合軍による逮捕令から話が始まっている。ちょっと立ち読みしたら知らぬことばかり書いてあるので買ってしまった。
 近衛さんは、逮捕令の出た時軽井沢の山荘にいて、その後、美人のお妾さんをつれて櫻新町(今はさざえさんで有名だ)の長尾欽爾邸に行き、そこで4日間すごし、夫人の長尾よねさんに、「ここで自殺するから、貴女が帯の間に持っている茶色の小壜の青酸カリをくれ」と頼んだという。しかし、よねさんに「死ぬのはご本邸で、奥さんのそばでなさい」と断られたので、荻窪の荻外荘に帰って自殺した。死の枕元に茶色の小壜があってまだ数滴残っていたが、米兵が持ち去ったというから、長尾よねさんがあげたのだろう。当時、米兵は日本の女性を誰かれ構わず強姦すると信じられていたから、多くの女性が青酸カリを持っていた。近衛さんは死ぬ前に何故四日間もぐずぐずと他人の家にいたか。美人のお妾さんと一緒にいたかったからだろう、と著者は推測している。白洲正子は近衛文麿のことを「コノエフミマヨウといわれて」と書いている。優柔不断なお公家さんという意味にちがいない。今なら「決まらないな、また野田する」というところか。
 何故いきなり白洲正子に話が飛ぶかというと、彼女が書いた「女傑」という短いものが、長尾よねについて書かれた唯一のものだと言われるからだ。正子は鎌倉山の長尾の別邸で、よねと酒を酌み交わしながら話を聴いたという。長尾欽爾は健康補助剤「わかもと」を作って巨富を築いた「事業家」で、近衛の金銭的な面倒もみていたという。なにしろ「わかもと」はビールを絞ったかすを原料にして作る錠剤だからボロもうけ出来た。今でいえば特別良くきくサプリメントというところだろう。豪勢な大邸宅を構え(櫻新町の屋敷跡は今、高等学校の敷地になっているという。)陸海軍の元帥や大将、お公家様や総理大臣から東大教授まで、さらには歌舞伎役者から横綱大関まで、あらゆるトップを招待しては大宴会を催していたという。其の中心にいたのが長尾よねだった。美術品も専門家に目利きしてもらって沢山集め、長尾美術館を作った。戦後衰退し、没落するにつれて、そうした逸品は次々に売られてしまった。熱海のMOA美術館の逸品中の逸品、国宝の仁清の藤の花の壺も長尾美術館から流れて行ったものだ。
 話はガラッと変わる。この本を読んだ翌日が土曜日で、「若い」友人の定年を祝う?ご苦労さん会があった。その男が実は白洲正子についての第一人者で、今年も正子についての公開講義をする。何たる偶然!早速その鎌倉山で取材して書いたという短文「女傑」のことを尋ねた。勿論良く知っていて、コピーをくれるという。ついでに、近衛さんの自殺についての正子の文章もくれるという。散々飲んで彼はかなり酔っていたから忘れるかと思ったら、なんと今朝(月曜日)一番にファックスで送ってくれた。いや偉いものだ。
 孫に誘われて、何気なく鎌倉に行ったら面白いものを掘り出した。しかも、その翌日からまた話が広がって面白い文章が読めた。毎日このようなことがあると良いのだが。
 
コメント (3)
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