児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

オケのアウトリーチ1

2006年05月25日 | アウトリーチ
学校のアウトリーチの子どもによる扱いについて

 アウトリーチでオーケストラと小規模な中学校に行ったとき、ふたり障害者の子どもがいた。ひとりは完全に車いすの子、かれは音楽が鳴っている時間中、ずっとウーとうなっていた。もうひとりはときどき「もう帰りたい」とか「つまらない」とかいう発言をとてもきれいな声で案外はっきりと(みんなに聞こえるくらいに)言っていた。
 子ども個人、と言うことで考えるとはじめの方の子(A)は、音楽とかの刺激(アウトリーチ)が一番必要な子どものひとり。もう一人の子(B)はたぶん短時間で集中的に聞くのであればやはりとてもこういう体験の大事な子。
 終わったあと、指揮者と話しをした。これは判断の難しい問題だねえという話になった。現在の学校での教育は、障害児も健常児と一緒の生活を送る権利、というのが基本的な方向性であるようだ。社会の中にいろいろな人がいて、お互いに仲良く社会を形成していけること、それは非常に重要である。だから教育はそこに向かおうとする。
 一方、声が気になることで集中して聴けなかった子どもは「滅多にないすごい経験をそれ故に体感できなかった」というのも間違いない事実である。そのことはやはり問題なのではないか、という意見もある。それも確かに正しい。
 オケの場合はもう一つ要素がある。指揮者は観客だけでなくオケのメンバーのことも考えているのだ。その分回路は3倍にふくれあがるわけだ。曲目にもよるが、モーツアルトでプログラムを組んだような場合、オーケストラはきわめて精密にお互いの音を聞きながら音楽を作っていく。凝縮してピアニシモを作っていくところから、わっと広がるところなどの緊張感を維持するのに強い集中力が必要で、そこが崩れていくことで音楽への集中力が切れることが問題になるだろう。こういうところが芸術の一番エッセンスであるとも言えるだろうが、それ故、本来得られるはずだった感動を作り出せないことに繋がる。それが問題だと指揮者は言った。まったくそうだ。そこで起こることは当然予想がつく。曲目にもよるということも事実だろうが、それはともかく「オケはプロだからどんな状態でも最高の演奏をしなくてはいけない」などという理想論だけではすまない部分であって、客は静かに聴け、とか演奏家はいつも完璧でないとお金は払えないとか、その子のためには他の子は我慢をすることを学ぶのが社会教育なのだ、とかいうような議論は、生の芸術鑑賞という社会的な行為にとって不毛の入り口でしかないような気もする。

 芸術をする側からの現実論的には(というか直感的には)、その子のためだけにもう一回別のプログラムでやる、という覚悟を持つことが一番大事だとは思うのだが、それでも解決するわけではない。音楽会というものがそもそも社会性と密接な関係にあることは避けられないので、一人でCDを聴けばいいとは言えないのである。
 しかし、そういうことを超えて芸術は存在するし、人間のさまざまな面を無視してアウトリーチも出来ないのが現実だと思う。悩ましい。

 まだまだ、根本的な機会の量的問題があるような気もするし、分量では解決しない問題もあると思うが、もう少しいろいろとやってみるなかで考えていくしかないのだろう。





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