児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

第3回チェロの日 at Suntory hall(2/9-11)

2013年02月19日 | 徒然
 チェロの日の第1回は2010年。間に日本チェロコングレス(2011)を挟んで、毎年2月に行ってきた。毎回予想通りというか以上の企画に成長してきている。会長もつい期待してしまう訳だけれど、その推進力は渡辺亮さん。彼とは2005年の神戸のコングレスのときに初めて出会った。舞台は彼に任せればすべて大丈夫、といわれたが、確かに舞台スタッフとのつきあい方、状況判断の的確さや現場力など、プロはだしの部分があって感心したのが最初。その後チェロ協会の企画をかなり動かして、プロとアマチュアを上手くつないでくれているので、日本のチェロの世界で期待している人も多いと思う。もちろん彼の本業は全然別なシビアな世界なので、こんなにやって大丈夫だろうかという心配がないわけでもない。
 今回は仕事の都合で初日にはいけなかったので、2日目と3日目に手伝いに出かけた。手伝いといっても実際は「居ることに価値がある」みたいな感じなので、やることが具体的にあるというわけでもないのだけれど・・・
 10日は今年初めて実施したジュニアキャンプ。そのアンサンブルとソロのコンサートがあって、ソロの部は一応子ども達の意欲を喚起するという意味から賞を出そうということになっていた。小学2年生から中学3年生まで8人が演奏して、それぞれ、かなり充実した演奏をしていて、純粋に音楽を聴く立場として面白かった。その中でも小学2年生の二人の男の子は、とても音楽的で二人とも全身体から音楽がわき上がってくるのではないだろうかというようなのに感心。特に小2でアルペジョーネソナタを選択して持って来た子はもちろん指が完全ではないのだけれど、明確に音楽の在処を知っているような感じでびっくりした。アルペジョーネソナタは難しい曲なのだ(ペレーニとシフのCDがすばらしいけれどなかなかすごいのにお目にかからない気がする)。まあ、彼にとって「難しい曲」というのは全く問題にならないことなのだろうと思うが、いやあちょっとびっくり。
 11日、高木慶太君が「自分の独断と偏見で決めました」という若手のチェロアンサンブル。前回は8人の若手で、チェロデュオばかりを様々な組み合わせで聴かせて実に面白かったのだが、今回は8重奏と4重奏の4曲をやはり8人のチェリストで聴かせる趣向。それも全員が男性。「一種の世代を感じさせるね(山崎さん)」という聴き方があり得る面白さがある。こういう男っぽさも芸の内である。ピアソラの編曲もすばらしかった。また頼みたくなるような8人の個性を活かした編曲。最後のチェロオケも山本祐ノ介の指揮が益々堂に入った感じ(益々お父さんに似てきたし、選ぶ衣装もそれっぽくなってきた)で楽しかった。そのあと新幹線で岡崎(幸田)へ・・・(幸田はまた・・・)

揖斐川の北島佳奈さん(ヴァイオリン)

2013年02月09日 | 各地にて
地域創造の音活連携モデル事業。山県市の伊藤氏が中心になり、1月に山県市で、今週は揖斐川町で行いました。ヴァイオリンの北島佳奈さんとピアノの加地美秀子さん。
今回はコーディネートを中村透氏にお願いして、新人のサブについてもらって行いましたが、結果としては色々な意味でとても良いアウトリーチとコンサートになったと思います。1月から2月へかけての北島さんの進化が気持ちよく、その意味でも満足度の高い結果になっていると思います。北島さんの、つながりたい、と言う強い気持ちが、ちょっと行き過ぎるときもありましたが、学校でもコンサートでも聴き手に強いインパクトを与えていて、それを楽しんでくれる谷汲地域の人たちと相まって多分演奏家もお客様もとても楽しんだと思います。北島さんの意識がどんどん開いていったことが一番ですが、関西弁の勢いで語りかけるのもテンポ感が良くてそれが演奏にも影響していたこと、子どもとのやりとりで彼女の受け取っているものがとても大きく、それが双方が良い刺激をえていたこと、など、分かりやすくその意味では色々な意味で大正解な事業になりました。中村さんのさすがと思える持って行き方もとても勉強になりましたが、伊藤さんのサポートじつは下支えをしていたと思います。この辺はさすが地元のことを良く知っている強みを活かしてくれていました。

ポイントはいくつかあると思いますが、
音活と違い担当と北島さんが会えていなかったため、山県に一度北島さんを現地に呼んでついでに下見もしてもらったりしたのが効果的だった思うこと。
中村さんとサブの田辺さんのコンビネーションがとても良かったこと(中村さんのうまい振り方、と言うのも込みですが)

いわき2/2おでかけアリオスガラコンサートVol2 

2013年02月03日 | いわき
地元の演奏家によるアウトリーチを行う「おでかけアリオス研究会」、一緒に良いアウトリーチのあり方を考えていこうという意味でこういう名前になったのだろうとおもうけれど、悪くないネーミングである。アリオスは大ホールと小ホールしかないので、こういうガラコンサートをを大ホールでやるのは難しいし・・・ということえ小ホールで2回に分けて行うことにした。そもそもは前年度に行うはずだったのだけれど、震災で有料公演を手控えていて昨年は実施せず今年が初めて。9月にやってそのときに2組、今回2組に出演してもらった。もちろん東京から呼んでいる人たちにも出演してもらっているので今回は4組の演奏家、クァルテットスピリタス(sax)、田村緑(piano)といわき組の木田奈保子(sop)、常光今日子(Vn)にそれぞれ20-25分の演奏をしていただいたあと、合同で長尾淳に編曲を頼んだガーシュインメドレー。

今回の研究会の4人のメンバーはこの2年間で時々一緒に演奏するようになった仲間意識の強いメンバーが揃ったので、うまくいったと思える。それぞれがこの2年間で何かをつかんで歩き始めた気がするのでその意味でも第一期としてはすこぶる成功だったといえるだろう。
各地で似たようなことをしているけれども、やはり私としても一応活動の本拠になっているいわきで良い結果を出さないと格好がつかないし、一生懸命になる理由はある。また、オープンからアウトリーチの活動に力を入れてきたので、この事業をすることでスタッフにも考えたり工夫する機会が作れていることが、他のアウトリーチ活動などにも良い影響賀あるのではないかと期待する。

写真は終了後の記念撮影。

アーチストが学校に行くということ

2013年02月01日 | 徒然
兵庫のステージラボから栗東にまわり、打楽器のアウトリーチ。演奏家は若い久保さんと大石橋さんのふたり。栗東市葉山小学校4年生に向けた午前午後2回のアウトリーチは主役を入れ替えて組み立てを完全に変えて行った。今回は学校を出たばかりとこれから出る人。それぞれ演奏テクニックについては本当に良くできる。その意味では見事なのだけれど何かあっさりしすぎと感じるのはこっちの問題かもしれないが、あなたは学校に行って何を残してくるのか,という問いに自分の明快な意見を言える人は意外と少ないかもしれない。今回見たアウトリーチも、もちろん平均的に80点は取れる内容のアウトリーチであって、もしこれをみる私が学校の成績をつけるのであればもちろん優か良で合格。
でも、考え方を学校の成績におかずに演奏家(アーチスト)がわざわざ学校に行くということは学校に何をもたらすのか,と考えないと行けないのだろう。その答えはうかつには出しにくい事であるが、ある一部だけ突出して150点を取れる人がいる、という事だと思う。100点満点で150点というのは実は存在しない得点で、点をつけるという価値観を壊す存在だということだ。
その意味でアーチストでなければ出来ないことを学校という場所でやらないとプロのアーチストの行く価値はない。しかし、同時に、アーチストの専門性を持ち込むだけではやはり伝わらない,と考えるべきだろう。それがアウトリーチの難しいところで、決して一元的な正解がみつからないのである。

まだアウトリーチって何?という(またはあっさりあれねと言える)幸福な演奏家もそれなりの数居ると思うけれども、アウトリーチってよく分からないけれどあんな感じなのね,と思っている人はもっといるかもしれない。考えて見れば10年ほど前にはアウトリーチで何をするのかという問いに答えてくれる人が周りにいなくて、子ども達とのコミュニケーションをどうとるか、必死に考えた演奏家が多かった。それが蓄積されていて、今はありがたいことに見本が随分と世にあふれていて、心への必死の問いかけ無しに様々な手法などを理解できる機会がある。幸せな事だがそれがアウトリーチの環境を良くしているのか悪くしているのか考えてしまう。それも、少し前、フィールドノートを「アウトリーチのネタ帳」と書いた人がいて、嫌な気持ちになっていたからでもあろう。本来ネタ帳というのは自分のノート以外の何者でもなく、出版されているものではないのである。たとえば長崎のNさんのアウトリーチノートをみると、それがその人の創造性と想像性の産物であることがよく分かる。
フィールドノートは進行プランを見て、手法の結果ではなく、手法のありかたや手法とは何故必要なのかを考えるきっかけにして欲しいから作っているのだけれど・・・。
抽斗にいろいろな知恵を整理してためておくことは勉強には極めて有効な手法であり、それは一種の前提だけれど、いくらたくさんのことをしまい込んでも、結局使い方は自らが考えて決めていくしかない、という事だろう。
アウトリーチが盛んになってきて嬉しいことなのだけれど、心配になるのは私が単に心配性だからだろうか?