児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

今週

2013年04月26日 | 徒然
学校が始まるとなんか日程が分散したようになり気が落ち着かない。別に生活パターンが変わったわけではないのだけれども。とはいえ、今年も月曜日は昭和と芸大の二つを掛け持つことになる。大学2年生の方は必修でもあるので一応予定が立ちやすい。それでも如何に単純な講義ではなく、そのときはなにをしているのか分からなくてもあとで思い出してくれるような体験をしてもらいたいと考えている。22日は教室に外に音をひろいに行ってもらった。耳から入ってくる情報がどんなもので、それが音楽を考えるときに重要だと思うから。ついでに拾ってきた音をいくつか使って短い物語を書いてもらう。細部(断片)と全体(構成や物語)との間を固定せずに行ったり来たりすることが出来る、ということが音楽を聴くときに大事なのではないか、と思う。まあそんな訓練の一端のつもりだけれど、80分の授業では表面的に終わってしまうきらいがあって、これで大丈夫だろうかと心配になる。
一方の芸大は受講生がいるかどうかが常に不安。大体[特殊研究」というタイトルが魅力的でないよね。まあ学校が決めたので仕方がないのだけれど。こっちがマニアライクに特赦な研究をしていて、それを突き詰めるのであれば、ある意味生徒はそのようなやつがやってくる。私の場合は、生徒とはなして自分の守備範囲の中から、前期はこれ後期はこれ、と決めていくという特殊さなのである。元々は演奏家のキャリアマネジメントをと始めた気がするのだけれど、アートマの生徒にとっては自分のキャリアには切実な興味があるけれど演奏家のキャリアということにイメージが拡がらないのかもしれないのでなかなか難しい。
今回は一人かもしれないので彼女のテーマである[ホールのレジデントというキャリア」について考えていくことが出来るかもしれない。レジデントアーチストという発想は日本ではカザルスホールに端を発するが、いろいろなやり方、目的などがそれぞれの会館で試されてきている。ただ、ホールの人の発想は「演奏家のキャリアにとってどういうことなのか」という方向からは思いのほか考えてこなかったかもしれない。とするとこれは先生も全く答えをもっていないテーマであって、一緒にすべき研究ですね。教室だけではダメかも。彼女にとってもいわゆるフィールドワーカーとしての姿勢になる。こちらはそれに刺激を与える役割かな?うーむ。

22日の夜はバズファオブの演奏会。毎年やっているのでずいぶんの回数になるだろう。一方それぞれのメンバーはここ10年ひたすらに忙しさが増加していて、それ故グループを煮詰めていく方向になかなか向いていかない、という意識が今回のオールバッハプログラムを選ばせたのではないか。良いタイミングだったかもしれない。しかしバッハは難しい。

23,4日は長崎に行って演奏家の研修。今年と来年にアウトリーチ(とコンサート)をやってもらう演奏家3組である。大学を出たての人からかなりのキャリアを続けている人、ご主人の転勤できて長崎に地歩を確保したいと思っている人と条件はかなり違うけれども、アウトリーチ事業の良いところはそういった人を束ねるミッションを設定でき,それ故に一緒に考えることが出来ると言うところだろう。長崎は今年の4月の異動でなれない人が担当になったので少し心配もある。しかし、役所の人は優秀であるから一定の水準は間違いなく維持できるだろう。まあ私の緊張感をすこしつけないといけないかも(楽してたということですかねえ)。25日は長崎から幕張に行って、市町村アカデミーの研修会の立ち会い。今野尚美さんに相手は市町村長とかでやりにくいとは思うけれど、アウトリーチでどんなことをしているのかが分かるようなプレゼンをお願いした。期待以上にいろいろと考えてくれていて、相手の心に入っていくような内容。なかなか面白かった。
と言うことで今日と明日は完全にオフ。ワーカホリックにならないようにしないとね。 

4/20いわき

2013年04月20日 | 徒然
いわき。昨日の夜からかなり冷え込んでいるが流石に4月下旬にコートは着にくいので我慢しないといけない。
明日はいわき(というか福島県)の合唱界を長く牽引してきた石河清さん(先生で良いですね)の85才記念の演奏会があって今日も一日かけてリハーサルをしている。共同主催ではあるが先ほど楽屋を訪ねた。本人はすごい気合いでひたすら感心する。しかし、声楽家(兼指揮者)の85才のコンサートにアリオスの大ホールに大勢が寄ってくる、というのはたいしたことだ。お祝いの気持ちでコンサートを迎え、接するのが一番だろう。

話はまったく変わる。
昨年の秋から、天候以外でもいろいろなことが起こる。どれも今まで自分たちの30年以上生きてきたこの業界というか社会を動かす様々なルールや形態に余裕が無くなり、きしみ始めていて、作用反作用がいろいろな形で起こっている(それも結局個人に向けて)と感じるようなことである。昨日聞いた話もそう。何だかなあ・・・。しかしこの時代を持たせないとそれを見ている下の世代にはつながって行かないので、ある日崖崩れのような事が起こるだろう。若い世代にまとわりつく無力感がその上の世代にまで拡がらないことを祈るばかりである。それも芸術本体もそうだけれど私はマネジメントの方も心配。私も害にならないように頑張ります。

さて、ガラケーを時代後れだという世論に象徴されるように、アメリカを標準とする考え方は交換可能なモジュール化の指向が強く熟練に対する敬意は強くない。世界標準(作られたものだとしても)のなかでビジネスをしていくためには確かに必要なのかもしれないけれど、大田区の先端的な工場に象徴されるように、日本は別の方法でいろいろな装置を作ってきた。家を作るのに大工さんの工夫を採用するのか2×4を選ぶのかというようなことでもある。日本のやり方は狭い場所でいくつもの機能を複合させて効率を上げるために必要だったし、それ故にコンパクトなサイズのものは日本人の得意分野だったのだろう。
企画をするにしても、いくつもの趣旨や目的がインテグレートに結びついて作られる「これって一石三丁でしょ、もしかしたら一石四丁かも?」というような企画が「わかりにくい」と言われることもあって困惑することがある。芸術と資本という違った思考形態を持つ社会の間で仕事をしている身としてはなかなか悩ましい問題である。わかりやすく納得することと企画そのものが単純化するのは別の問題だろうけれど、オケとか芸術の分野やその仕組み(マネジメント)もモジュール化していってそのことに知識のない人でも動かせるような形態になっていくのだろうか。
あれ?話が混乱してますね。

埼玉県障害者アートフェスティヴァル2

2013年04月01日 | 徒然

順不同だけど3月28日。障害者に施設に併設されたカフェそれいゆは熊谷からタクシーで15分くらい、利根川のそばにある(といっても見えないけれど)。今回は2回目。前回の緊張感がまだ取れないスタートと違って、今回はみんなが会場に入ってくるときからニコニコしている。楽しみと言うよりももうすでにその楽しさの中に浸っているような表情で、これが2週間前に第1回目をやった効果だろう。
田村緑さんのアクティビティ紙に書くとその良さが伝わらないうらみがあるのだけれど、一応書くと、
入場
トルコ行進曲
くるみ割り人形のワルツ
前回飾ってくれた施設の人が書いた絵5点に田村さんが曲をつけて演奏
前回の印象を絵に描いてくれた人の絵を見ながら、前回も弾いたきらきら星の演奏
みんなで歌おう(2曲)
カノン(ハンドベル)
トロイメライ(アンコール)

子どもでも老人でもどんな人でも曲に入ってこれる魔法のようなトルコ行進曲で始めて、くるみ割り人形を再度見せてのワルツ。そのあとみんなの書いた絵とのコラボ、そしてみんなが一緒に歌う参加。
ハンドベルでのカノンは前回もやったのだけれど、それぞれの人はとても楽しんでいるようではあったが一つ上手くまとまらなかったので、もう一回という挑戦。前に一度やっていると言うことは本当に価値があることで、今回は全体もまとまり楽しいの上にちょっと充実感があった。そしてそれを鎮めるかのようなトロイメライ。


こういう場所である程度充実感をもって行うためにやはり最低2回というのは大正解だったみたいだ。時間がかかるのである。その過ごした時間によって関係が出来、感性が開き、感動的になる、というのは「同じ釜の飯」とほとんど同義かもしれないですね。