先週の土日にいわきで行ったバレエの公演。下村由利恵さんにお願いしたいわきアリオスのダンスリレー事業1年目。地元の方達を公募し彼らと数ヶ月にわたって練習をしてきたくるみ割り人形(クララの夢)の公演は1時間40分くらいに縮めて、下村さんが踊りも随分アレンジして、様々なレベルの人が一緒に舞台に上がれるように工夫してもらったようで、楽しめる公演になった。子ども達が最後に本当に頑張って、それをお母さん達が応援して・・・ということで、2回で600名を超える入場者でまあ客席もほぼ一杯に見える満足な状況になった。
今回は、ロビーに集う人や客席内の雰囲気を意識しつつ公演を見せてもらった。歴史を持つ芸術ジャンルがもつ旧来の名作の威力を感じると共に、充分に楽しめる内容になっていたのにある満足を感じつつ、「ただ憧れを知るものだけが・・・」という言葉が浮かんできて仕方がなかった。ただ憧れを知るものだけが、私の心を分かってくれる・・・という小説の登場人物ミニヨンに仮託したゲーテの詩で、シューベルトやシューマン,チャイコフスキーなども歌曲として作曲した有名な作品。
特にそのことを意識して実現した公演というわけではなかったが、ここ2年アリオスがずっと気にしてきたいわきの子ども達の心の問題に対して一つの(あくまでも一つのではあるが)答えを見つけたような気分。
震災後に文化による心の復興が随分言われてきているけれど、この公演では、バレエという確固たる芸術の歴史と質感(これがとても重要)、それに向かう親や子ども達の気持ちが憧れという言葉で集約できるように感じられた会場の雰囲気。
社会学者の井上俊が1989年に発表した論文に、文化(多分芸術も))の社会的な役割として、適応、超越、自省をあげているけれども、今回はその超越の力を見せつけられた感覚。社会の大きな変化に適応する道具としての文化の機能も大切だけれど、自分を大きく超える存在を意識することによる、敬愛や憧れなどの意味もこういうときだからこそ大きかったようにも思える。この憧れというドイツ語はドイツ人がとても好きな言葉だというが、そこにはいわゆる憧れて到達するエネルギーをもらうと言うだけでなく、若干の諦めに近い感情も含まれているという(日本人の私にはちょっと分かったような分からないような感じだけれども・・・)。
今回は、ロビーに集う人や客席内の雰囲気を意識しつつ公演を見せてもらった。歴史を持つ芸術ジャンルがもつ旧来の名作の威力を感じると共に、充分に楽しめる内容になっていたのにある満足を感じつつ、「ただ憧れを知るものだけが・・・」という言葉が浮かんできて仕方がなかった。ただ憧れを知るものだけが、私の心を分かってくれる・・・という小説の登場人物ミニヨンに仮託したゲーテの詩で、シューベルトやシューマン,チャイコフスキーなども歌曲として作曲した有名な作品。
特にそのことを意識して実現した公演というわけではなかったが、ここ2年アリオスがずっと気にしてきたいわきの子ども達の心の問題に対して一つの(あくまでも一つのではあるが)答えを見つけたような気分。
震災後に文化による心の復興が随分言われてきているけれど、この公演では、バレエという確固たる芸術の歴史と質感(これがとても重要)、それに向かう親や子ども達の気持ちが憧れという言葉で集約できるように感じられた会場の雰囲気。
社会学者の井上俊が1989年に発表した論文に、文化(多分芸術も))の社会的な役割として、適応、超越、自省をあげているけれども、今回はその超越の力を見せつけられた感覚。社会の大きな変化に適応する道具としての文化の機能も大切だけれど、自分を大きく超える存在を意識することによる、敬愛や憧れなどの意味もこういうときだからこそ大きかったようにも思える。この憧れというドイツ語はドイツ人がとても好きな言葉だというが、そこにはいわゆる憧れて到達するエネルギーをもらうと言うだけでなく、若干の諦めに近い感情も含まれているという(日本人の私にはちょっと分かったような分からないような感じだけれども・・・)。