児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

育児支援コンサート(クァルッテト・エクセルシオの強み)

2009年03月31日 | 徒然
 3月末の恒例である育児支援コンサートが終わった(3/29)。一応私としても一つの区切りのコンサート。
 2000年、第一生命ホールのオープニングコンサートを考えていくなかで生活提案型企画をどう考えるかというのは案外悩ましい問題だった。生活提案型、というのはパルコの企画をやりながら自分の中に意識として強く芽生えてきた考え方で、岐阜のメルサホールでも試みた手法なのだけれど、東京という日本の中でも特異といえる立地と金融業という持ち主という前提を考えたときに簡単ではないとおもわれた。戦略として掲げた芸術性とコミュニティ(グローバルとローカル)という事のちょうど間を確保する企画として考えたライフサイクルコンサートで一番初めに手がけたのが育児支援コンサートである。前半を子供と大人を分けて音楽を体験してもらう、というのはどちらかというと素人っぽい発想。しかし、サポーターが居るから何とかなるかも、と始めたのは正解だったかもしれない。数年のうちにサポーターが自主的に活躍するコンサートとして形が出来ていった。数年前、JATETの機関誌にも書いたけれど、サポーター抜きでは考えられない企画だし、サポーターはトリトンアーツネットワークの宝である・・ともいえるとおもう。その意味で、この企画は容易にまねの出来ない企画だろう(全国のホールでもいくつかしか思い浮かばない)。
まあ、生活提案型は一種のマーケティング企画だと思う(儲けるという意味ではない)けれど、ターゲットを絞るという手法は、必然的に分母を少なくするので(芸術性の高さを担保する企画も別の意味で分母が少ないけれど・・)難しいのだ。マーケティングの常識は「ターゲットを絞る」事が効果を呼ぶ・・という事にあるのだけれど、クラシック音楽では必ずしも正解かどうか判らない。マーケットを意識した企画でも失敗する可能性もある(というか随分失敗した)。
 でも、育児支援コンサートは普通の親子コンサートとは一線を画した明解なコンセプトで始めたことと、それをトリトンの関係者が一生懸命広めてくれたおかげだろう、最近はいつも売り止めにしないといけない位に定着してきた。今年は8回目になるけれど、今回担当の菊地さんがフューチャーしたのは、新日鐵音楽賞を取ったばかりのクァルテット・エクセルシオ。
 前半、大人がホールで演奏を聴いている間、小さな子どもには年齢に分かれて4つのスタジオが用意されている。今回は、エクのメンバーの3人とオーボエの古部さんにお願いした。そこでは音楽や楽器の体験などで30分ほどの時間を過ごすのだけれど、後半の演奏会ではスタジオで会った演奏家が舞台に上がるのである。今までのスタジオの経験では弦楽器が予想以上に苦戦する、というデータがあったのだけれど、後半エクのメンバーが舞台に出た瞬間、子供たちが大きな声で「ももちゃーん」「ゆきちゃーん」とかそれぞれの名前を呼んだのだ。これは過去にはない事だったのでちょっとびっくり。一気に会場が盛り上がった。演奏家の方もそれで嬉しくなったみたい。最後にやった絵本とのコラボ「くものす親分捕物帖」も良いできだったけれど、今回の圧巻はやはり子供の声だっただろう。これを引き出したのは前半のスタジオの出来で、雰囲気が最高に良かった証拠である。たぶんエクセルシオが8年くらい続けているアウトリーチ活動の経験の成果だと思う。嬉しいことだ。
あと、演奏そのものでは、こういう演奏に集中しにくい環境で、ぱっとカルテットの音が出てくるのはやはり常設カルテットとして活動をしているグループの強みだと思う

郷ヶ丘幼稚園のNUUさん

2009年03月28日 | いわき
NUUさんは3月29日に初めてアリオスコンサートを開くのだけれど、その前日にいわきの住宅地郷ヶ丘の幼稚園におでかけをしていただいた。NUUさんには2007年からいろいろとお願いをしてきてアリオスがオープンしてからも何回かいわきに来ていただいたのだけれど、アリオスでのコンサートは今回が最初になる。彼女の意気込みが伝わってくる気がする。
アウトリーチでは、初めの頃は行くたびに、いろいろと悩んだり考えたりすることがあったのではないか、と思うのだけれど、昨年秋頃からは行く先々で本当に楽しんでくれるようになった気がする。今日の幼稚園も、子供に何を感じてもらいたいかがとても良くわかる内容。プロだから聴き手の前に立てば、その現場に対して一生懸命になってくれることはある意味当然であるけれども、何か違和感のようなものがあるとないとでは伝わるものの大きさがずいぶん違うはずだ。だから、楽しさに無理がない、というのはなかなか難しいのだけれどすごいことだと思う。NUUさんと良い関係をつくれてきたことに感謝しないといけない。彼女がいわきでのおでかけの最初の演奏家であったことは(特にクラシック以外のジャンルで)本当に良かったと思う。受け入れ側も、演奏家も、それに政策としてこのようなことをやっている企画制作側も、何が効果的で、何が問題で、そのために何を考えないといけないのかということが他ジャンルをやってみて判ったと言うこともある。なかなか難しいことだけれど、考え方の問題まで含めて普及とか地域社会とかとの関係をつくることについ随分思うところがあったので私としてはとても意義があったという感想。
こういうジャンルのアウトリーチは全国でもそれほど多くないと思うけれど、大きな可能性を持っているし彼女ならば良いことが出来ると思う。PAの問題とか(その点ではアリオスはスタッフに恵まれている)もあるけれど、こういうことの先駆者になってもらいたいものだ。
今日のコンサートで気がついたこと
・NUUさんの客とのやりとりと盛り上げ方が本当に自然なったこと
・渡辺亮さん(パーカッション)が、子供の様子を見ながら音を作っていたのが印象的。たのしそうでした。
・笹子重治さん(ギター)。演奏中、昔は楽譜を見ている時間が長かった気がするけれど今日は子供の方を見ている時間が多かったな。
・小さい子供を驚かさないPAの処理が感動的に良かった。このジャンルでは演奏者もだけれどPA作りはアウトリーチでも大きな要素(どこまでやるかという問題はあるのだけれど・・)。
でも良い会で良かった。

不思議なワークショップ

2009年03月25日 | 徒然
芸大の芸環(千住)の学生と古楽(上野)の学生、という不思議な組み合わせのワークショップ(WS)があってのぞきに行ってきた(3/24)。お互いが相手を不思議な世界だと思っていて、なにか、そこに接点を見つけたいという趣旨(だろうと思う)。芸環の生徒が仕掛けたWSである。集まったのは3名づつ。
初めに(自己紹介抜き?)お互いが相手の部門をどう思っているか、自分たちをどう思っているか・・ということを箇条書きにする、というところから入って、古楽演奏家のモデル的な像を造っていき、そこで行われるコンサートのタイトルを決めて音を出してみる・・というところまで約90分。古楽は華やかな感じがする、という芸環の見方に古楽の人が驚いたり、ということもあってなかなかおもしろかった。
音楽家からするとWSというものは楽器で何をやるか、とかいうことが普通なので、芸環の考えるWSとはずいぶん違うみたいだ。そこも文化の違いか・・。

どちらかというと芸環主導なので、初め、いったい何が始まるのか・・と怪訝な顔をしていた古楽の学生も、なんかおもしろそうかもしれないと思い始めるくらいで終わった感じだったのだけれど、そのあとの話しあいで、音楽家にとって、いろいろと聴き手を考えてプログラムを作ったり、そのことと自分の一番好きで勉強している分野(曲)をどのように関連づけることが出来るか・・などという話をしているうちに、だんだん芸環の考えていることがわかってきたみたいで、やはり、その次のステップのWSが必要なのではないか・・という話になった。
そのためには、具体的な目標が必要だと思うのだけれど、それがどうできるか・・というのを考える必要はあるかもしれぬ。音楽科では、音楽を学ぶことはあってもコンサートを学ぶというイメージがあんまりないかもしれない。コンサートは演奏者としての能力を実践する場所で、そこでは(どんな聴き手であろうとも)常に商品としての価値がある音楽をやるべきだという、ある意味ではとても誠実な考え方があるのだろうと思う。でも、今の時代、演奏者はコンサート(音楽自体ではなく学んできた音楽が行われる場)も学ぶべき内容の一つだと思うし、それをどう作るか、ということも企画者と一緒に考える、という局面が必要だと思う。
実際、「老人施設とかで演奏を頼まれるのだけれど、やはり演歌とか日本の歌とかをやるのが良いよというアドヴァイスくらいしかうけることが出来ない」という悩みを聞くケースは時々ある。自分が芸術家である所以のものを弾かないでどうする、という気持ちがあるのだろう。正当だ。そんな時に自分のやっている音楽でどのように勝負するか、そのために何を話せばいいのか、などという手法の技術論を考える人が増えると良いのだけれど、それを演奏家一人で解決するのでなく、一緒に考えセットしてくれる人がいることは大事だろう。

私はマネージャー上がりなので、演奏家のしたいことをどのように実現するか、ということから音楽の仕事を始めた。雑用がほとんど・・。でも、今でもその思考回路は常に仕事の基礎の処にある。でも、そのうち演奏の期待するとおりに客が感じてくれる訳ではないということに気がついた。そこでの演奏家は希望はあっても、それが実現できる方法論をすべて持っているわけではないことも(当たり前ですけれどね)。だとすると、演奏家の意見を聞くだけではダメなのですよ(怒られることはないけれど)。自分の仕事は、演奏家がどうあってほしいと感じているかを少しでも実現することだと思うようになって、演奏家の持っているもの以外で自分が獲得しているものが必要だと痛感した。
そのあとで、演奏家と聴き手の関係であるべき状態(姿)、というのを考え、それを実現しようと思うようになり今に至るわけだけれど、当然すごく難しい。
WSでも話が出ていたけれども、芸環の中でもアートマは何をしているのか良くわからないほど守備範囲は広い(文化政策から現場まで)。だけど、演奏家に対するときの思考回路は概ねそれで良いのではないかと思っている。

普及プログラムの送り手の難しさ(日立のトリオ・ミュゼ)

2009年03月20日 | 徒然
オーケストラの普及プログラム、学校公演などを経験して時々感じることは「良い企画でも演奏家の緊張感を維持するのはなかなか難しい」ということだ。もちろんそのことはオーケストラの専売ではない。企画制作の仕事でも全く同じことがいえるのだけれども、特に普及のための仕事とは「自分ではもう十分にわかっていることを伝える」ということが原則であって「自分でもどうなるかわからないことを体験してもらう」という作業ではない。聴き手が音楽を良く知っている(という仮定で企画する)普通のコンサートと違って、そのリテラシーのない相手であることを前提で作られる企画だからだ。演奏者も自分でも何をしているかわからないことは普及しにくいだろうから当然のことだろう。演奏家にとっても芸術の感動が一回性の中にあることを考えると、それは矛盾であり陥穽みたいでもある。そのこと自体がプログラムの細胞のように含まれていることなので、知っていることしか伝えられないと思える上に繰り返しの多い普及のプログラムでは、演奏者自身の緊張感を維持することは確かに至難の業である。普通なら「飽きる」はずだ。それをそうならないようにどうすればいいか。これは制作側の自省も込めた発言。難しいけれども、ミッション感覚の強さと同時に、知っていることとハプニングがうまく同居してくれることが必要なのだろう。

さて、3月13日に日立市で半年ぶりにアウトリーチで見せてもらったトリオ・ミュゼだけれど(フィールドノートを参照)コミュニケーション力の高さや筋書きの安定感はとても感心した。でももうすこし話の完成度(話術ではなく)を上げられないのかなあ、とも感じた。そのことはなかなか難しい。今回のミュゼが良くなかったのではないので間違いないように。もうすこし楽器や曲の説明とかでは聴き手にとってうまく聴くことにつながっていく流れが作れていると良いのだけれど・・。そういうのは現場で感じることもあるけれど、フィールドノートにするために、読めないメモをみて思い出しながら進行の様子を書き下すときに感じることが多いみたいだ。流れが不自然だったり、言い足りなかったり・・。これは、読むだけではたぶんわからないと思う。書くのが一番。
まあ、前日に小川典子の演奏会での話の隙のなさを聴いた後だっただけに特にそう思ったのかもしれない。(もちろん、隙のないことが絶対的に良いともいえない。アウトリーチではわざと隙を作るのもテクニックもあるのだから)、特に大人相手のマタニティコンサート風の企画でそのことを感じた。まあ、言い出すときりがない話だけれどね。

オランダ・アーネムフィルとコバケン

2009年03月19日 | いわき
いわきでオランダのアーネムフィル(小林研一郎指揮)のコンサートがあった(3/14)。この大ホールで小林さんが振るのはオープニングでN響と第九をやって以来一年ぶりである。早いものだ。
曲は新作の「地蔵」これは小林さんが初めに、これはヨーロッパの作曲家から見た地蔵のイメージで、決して皆さんの地蔵のイメージは一緒ではないかもしれない。こんな見方もあるのだと聴いてほしい、というコメントがあってからの演奏。それ以外はブルッフのヴァイオリン協奏曲とシエラザード。ブルッフはサイスという若い女流。
いわきのお客様にとって少し耳なじみのないプログラムだったかもしれないが、客席はほぼ満員。良かった。小林さんとしては芸術監督になってもう3-4年たっているだろうか、もう少し精密さを求めても良いような気もするけれど、作りの大きな音楽が聴けて、たぶんお客様もほとんど満足だったのではないか。
小林さんとしてはいわきは故郷ということで特別な思いがあるみたいだ。また、いわきの人たちにとっても同じようにちょっと特別な感じはあるだろう。その特別さがなかなか難しいことも含んでしまうのだろうけれど、今回は良い感じで出来たのではないかと思う。結局、アンコールを入れると2時間半になろうとする長さのコンサートになった。前日がサントリーホールで日フィルとの合同演奏会でそれも3時間近いコンサートだったと言うし、翌日は富山県砺波でのコンサートだから、全く体力勝負である。移動のスケジュールも大変そうで、出身地だからと言ってゆっくりも出来ず少し残念だっただろう。
それでも、コバケンのエネルギッシュさは相変わらずだ。個人的にはああいう音楽は嫌いではない。

自分について話すと言うこと

2009年03月17日 | 徒然
昔、合唱をやっていたときに「水のいのち」という曲はどうも背中がむずむずする感じだった。曲は気持ちいいのだけれど歌詞が・・。一人称の歌詞を歌うことがどうも恥ずかしいという感じがしていた。
だって「なぜ、さかのぼれないか。なぜ、低い方へ行くほかはないか」とか「私たちの深さ、それは泥の深さ、私たちの言葉それは泥のことば・・・」というのを、みんなで合わせて大きな声で歌うなんて・・という感じ。ミサとかは外国語だから大丈夫だし、日本民謡のようなものも大丈夫、現代詩がついていても平気なものも多いのだけれど、「私はこうだ」ということをそれもロマンチックに言葉にするのはねえ・・。まあ若いときの気持ちの有り様の一つだろうけれど。
不思議に私小説的なのにニューミュージックとかは大丈夫だった。あれは個人だからかな?

橋本治は学校で作文が嫌いだったらしい。それは自分のことを書けと言われてそれでそんなことはまとめようがないし書けないと思ったから。「自分ことなのに先生が正解を持っていてそれを書かねばならない」というように思えたと言っている。自分のことは実生活で自分が行えばいいことで(行っているし)なぜそれをわざわざ書かねばならぬのか。
確かにそれはそうだ。

なぜこういうことを書くのかというと、この間熊本でアウトリーチ作り方の話をしていて、ある演奏家が自分と曲を結びつける部分の話をするのが難かしいみたいだったので考えてしまったからである。曲の周りにある客観的な事実についてはいえるので、それを自分がどう思っているのか、どう弾こうとしているのかを話してほしいと言ったのだけれど、なかなかそうはならないのである。それは、演奏家は演奏ですべて表しているし表すべきだという考えが染みこんでいるのか、恥ずかしいからなのかは良くわからないのだけれど・・・。それで、水のいのちのことを思い出したのである。
実生活での他人との会話でも、自分の気持ち(これが一番自分のことだ)を話すという習慣が今の人間にはほとんどない、という指摘をほろ岩奈々さんという方がしている(新書「感じない子供、心を扱えない大人」)。ワークショップでは、今日朝起きてからここに来るまでのことを話してください、というと、朝起きて電車に乗ってどこで乗り換えて歩いてきました、ということはすらすら言えるけれど、そのとき自分がいやな気持ちだったのか良い気持ちだったのか、それがなぜなのか・・・という話はまず出てこないのだそうだ。だから他人の感情ともうまくつきあえないで、自分の気持ちは内向し過激な方向に行ってしまう傾向がある、ということだと思う。

しかし、アウトリーチでは自分を語ることが非常に重要である。それは、こちらから乗り込んだ場所ではこちらから心の窓を開かない限りコミュニケーションをうまくとることが出来ないからである。事実だけを話している距離感ではたぶんそれ以上のコミュニカティブな関係は作り出せない。大変かもしれないけれど自分から努力をする必要があり、それ故に訓練(技術を実践を繰り返しておぼえていく)はやはり必要だと考えるのである。

ビデオデ検証すること

2009年03月16日 | アウトリーチ
コンサートでもアウトリーチでも講演でも同じだと思うけれど、人前に立つことが多い人間にとって、自分がどう見えているか?は大切である。時々だけれどそう考えることが俗物のような気にさせられてしまう芸術家がいないではないけれど、それはまた特別である。高橋悠治さんとかのように本質しか見ないのではないかという気にこちらがさせられるような芸術家に言うとこっちが宇宙人のように思われてしまうかもしれないけれど。
知り合いの学校の先生は、かつて自分の授業をVTRに録画してそれを見ながら授業の進め方を研究したそうだ。その人は今は指導員として授業の構築がうまくできない先生(案外居るのだそうだ)を研修指導する場合に、その先生の授業をビデオに撮らせてもらい、それを二人で見ながら指導をしているのだそうな。その場面場面で指摘をし、「ここはもっと子供に発言させるべきだ」とかそういうことをやっているらしい。
たぶん、見える、ということを繰り返していくことでイメージが作られていき一種のイメージトレイニングの効果もあるかもしれない。パフォームすることは結局自分がどう見えるか、であろうから(もちろん見えない部分を意識的に作ることも含めてですけれど)、その技術を磨くことに他ならないだろう。語るべき内容の質のことはまた別の重大な課題であるにしても。

そんなわけで、この間田村緑さんと「田村さんのアウトリーチのビデオを見る会」をやってみた。これは以前から「やってみようよ」と言っていたことなのだけれど、田村さんも自分のビデオを見てみることがそんなにはなく、かつ、こっちもそれを見たところで何か指摘できることがあるかわからないという状態のまま、まずは実験でやってみた。これは1対1、あんまり他人が居るとお互いに言いたいことがいえなくなるのでまずはそれから。まあみんなで見るのもおもしろいかもしれない。
まず、感想としてはいろいろと気がつくことがあった。わたしもフィールドノートのためにメモしているといろいろなことに気がつくのだけれど、書くという作業に集中するあまり、絵としてどう見えているのかを見ている時間がなかったので、改めてみる画像はおもしろかった。フォーラムや地方では出来ても、おんかつアーチストとはこういう機会がなかなかないので、時間さえあればこれはいいことかもしれない。かなり突っ込んだ話題が出来る。演奏家も自分で見るだけでもかなりおもしろいと思うけれど(でも、自分の姿を見るのは多くの人の場合ストレスがある)、客観的にどう見えているかを言ってくれる人がいることはそれなりに価値がありそうである。
まだまだ手法としては実験段階だけれど、まあ実験としては悪くなかったと思う。時間があれば他の人ともやってみたいね。

熊本県立劇場のアウトリーチプログラム

2009年03月14日 | アウトリーチ
熊本県立劇場は4年ほど前から県内の市町村とアウトリーチプログラムに取り組んでいる。ここはプロデューサーのH氏が昔から県内の会館のまとめ役としてまたノウハウの蓄積場所として、研修の受け入れを含め様々な関係作りに意を注いできたという歴史があり、それが活きている企画である。関係作りという事業名目にならない活動は目立たないけれども、県立の会館の役割としては非常に重要かつ意義のあることだし、今後ますます必要になることに違いない。
今回(3月8日-10日)は地元の演奏家の研修として、地域創造のアウトリーチフォーラムの手法を取り入れたやり方に挑戦した。自治体というのは芸術家個人とつきあうことは少ないのだけれどこういう事業では、音楽団体ではなく個人とつきあうことになる。演奏家という芸術家はほとんど個人で活動する形態が多いので、県内の芸術振興にはそのあたりの人に気を配ることも大事なのである。
今回は、3日間で理屈から実践のアウトリーチで小学校に行くところまでするというかなり無茶な日程。時間的な余裕がない中、曲目をいじるのも難しいし、言葉は出てこないしで、どこまで言っていいのか非常に悩ましい中で行ったのだが、こちらにとってもかえって緊張感のある時間になった。オーディションを通った4人を二組に分け、私とH氏がそれぞれ面倒を見る形で進めたけれど、演奏家にとっては時間のない中で詰め込み過ぎだっただろう。それでも、みんな頭が混乱しながらも、何とか子供の前で格好をつけてくれたのには、実演家というのはつくづく順応力が高いと感心するとともに、やっていく中で詰め込んだものがだんだん消化されていくだろうと思う。演奏家の個性を生かしつつその人に合致したやり方を見つけていくというコーディネートの作業はコンサルティングに近い。
でも最終日のアウトリーチ終了後の打ち上げで、明らかに演奏家同士の仲間意識が芽生えていたので良かったと思える3日間でした。
地域で活動している演奏家は生活もかかっていてどこでも悩ましい状態にある。その悩みを理解しそれでも芸術に向かう心を共有してくれる人が身近にいることは演奏家にとってとても重要なことで、地域の芸術の状況を作るのに必要なことだと思うのだけれど、なかなかそういう相手もいないし社会的仕組みも出来ていないというのが現状であろう。今回手伝ってくれたSさんとか県立劇場のスタッフなどがそういう役割を安心して果たせるような環境作りが出来るといいのだけれど。
演奏家の人には秋に県内の市町村に派遣するプログラムが待っていて、そこではアウトリーチとともにコンサートも行う(コンサートはとても大事である。地域の演奏家にとって緊張感のある演奏会は実力向上に必須だし、そういう演奏家を作っていきたいので)。充実した活動になることを祈る
写真は、ヴァイオリンの広瀬さんとピアノの斉藤さん。斉藤さんはソロの時は緊張して顔が引きつっていたのだけれど、この写真の笑顔はいいですねえ。

小川典子さんのはじめのいっぽ

2009年03月13日 | 徒然
トリトンアーツネットワークの「クラシックはじめのいっぽ」というシリーズは、特に晴海を中心にした人口急増地域(いわゆる都心回帰現象の最先端)の人たちをターゲットに、クラシックを聴いてみたいけれどなかなか機会をつくれない人や、まだクラシックの本当の良さを納得していない大人のための平日昼間の企画として立ち上げた。お母さんとか比較的若い層をイメージして作った企画なのだけれど、必ずしもそういう人だけが来ているというわけでもなさそう。
考えてみれば、しばらく前までは、クラシック音楽は名曲を何度も聴くというのが一つのスタイルだった訳だから(録音もその傾向が強かったが、同じ曲の演奏者による違いを楽しむという面もあったといえると思う。伝統的な音楽を聴くという創造行為の一つのあり方だろう)、耳慣れた音楽を聴きたいというひとがクラシックファンの中に多くいても不思議でもない。
昨日の演奏は小川典子さんだったのだけれど、彼女は一曲ずつ話しをしながら進行した。舌を巻いたのは彼女の構成と話の見事さ。大人向けの普及企画の作りとしては、イギリスを縦糸にして音楽を横糸にした話の構成はわかりやすいだけでなく統一感もあり、こういう音楽会のモデルになるような完成度である。こういう場所では話がうまい、というのは話し方ではなく、内容なのだと言うことがよくわかる。
彼女はデビューのころから知っているけれど、演奏のスケール感や技術としてはすべて第1級なのに、もう一つ心に日本人が求めているような情緒的納得感が得にくいのではないか、という気がしていた(一時よく言われた日本の学生は技術的にうまいけれど音楽的でない、という論評とは全く次元を異にする話である)。もしかしたらイギリスという国の特徴かもしれない、などと思っていたものだ。昨日の演奏会はそのような印象を払拭するできばえだったし、話を入れることで聞き手に納得感をきちんと伝えることができていたように思えて、無性にうれしかった。
彼女は、東京音大やイギリスなど生徒に向かって「演奏家はなぜ話をしなくてはいけないのか」というような講義もしているそうだ。演奏家サイドからのそういうアプローチがあることはとても心強い。
今日の曲目は以下(話を入れて合計70分ほど)
モーツアルト:きらきら星変奏曲
ドビュッシー:月の光、沈める寺
滝廉太郎:憾み
武満徹:雨の樹素描
ベートーヴェン:悲愴
リスト:ラ・カンパネラ
アンコールはラプソディインブルー

カザルスホールのこと

2009年03月06日 | 徒然
ちょっと重い話題。
カザルスホールが閉館するという話を新聞で見たのは2月4日。実はちょうど10年前にやはり持ち主だった主婦の友社がカザルスホールを含むお茶水スクエアを売りに出すため、主催事業を担ってきたセクションであるアウフタクトを解散するらしい、という話が入ってきたタイミングとほとんど一緒。不思議な因縁なのか、時代背景が似ているのか、単なる偶然か・・。この急激な不況という社会環境で、日大がもうそろそろいいか・・と動き出したのかもしれないけれど。
さて、あまりに当事者である私がこの話についてコメントする、ということはまったく考えていなかったのだけれど、実は某新聞のかたが訪ねてきてかつてのスタッフとして今回のことをどう思われているか・・と聞かれたのでいろいろと思い出してしまった。たぶんカザルスホールが出来る前から活動をし始めた頃にいた人やその社会的な空気感を知っている現役マスコミの方は多くないと思う。他の人の話も聞くべきだけれどね。
記者の方には大体こんな話をした。ただし、これはすべて個人的な感慨(ため息のような)であって、客観的な意見ではないのであしからず。
たぶん、カザルスホールはコンサートホールというものに、「場所」ではなく「人格」を与えようとした初めての?実験だったのではないかと思えるのだ。その思想は萩元晴彦の発想なのだけれど、それをスタッフが(もしかしたら演奏家の人たちも)それぞれ自分の思いをカザルスホールを依りしろとし、「人格」やその後ろに見え隠れする「カザルスの精神」(あまり良く説明できないのだけれど)を写しながら企画や演奏をすることで独特の企画のあり方が生まれていく、ということになったのではないか。カザルスホールとはその思いの総体であるともいえるのである。従って、一つの精神でカザルスホールの13年をひとくくりに語ることは非常に難しいだろう。いずれにしろ今までの「場所としてのホール」と違ったあり方であったことは間違いないと思う。追い出された自分がいろいろ言うのは変ではあるが、一連の活動にはかなり高い評価をしているのである。
そう考えると、10年前に自分を含めてスタッフが非常に大きな失望と悔しさを感じた理由もわからないではない。企画セクションをなくすという選択が、人格の否定という感覚で受け取られたのは、その出自に関係ありと考えるのが自然だろう。それを求めてきたのだから。そして、そのことが社会にも強く影響を及ぼしたのだろう。残念ながらカザルスホールの話題が最大のニュース量になったのはオープンの時ではなくそのときだった。
ただ、では今どう思っていますか、と訊かれると非常に答えにくいのである。あんまり心が動かないのだ。なぜかしら。
カザルスホールが主催公演によって人格を色濃くしていったことは間違いないが、その主催公演の母体であったセクションが解体されたことで、人格としては瀕死の状態になったともいえるのであり、それがそのまま日大にも引き継がれたようにおもえるのだ。その状態のホールを見ることは座りの悪い気持ちであったし、今それがなくなるという話にたいしても、いまさら「カザルスホールを守れ」と声を高くする気になれない複雑な気分なのである。
カザルスホールのことと一緒にするのは批判があるかもしれないが、少しはザムザの家族のような気持ちもないとはいえないのだ。
ただ、一つだけあのアーレントオルガンだけは、精神的にではなくきわめて歴史的価値がある実体としての物である。オルガンを守るのは非常に重要だろう。

まあ、今後たぶん、当時の当事者である私がこれ以上書く機会は作らないと思うけれど、これを機に、客観的な誰かがきちんと記録をとどめ検証してホールのあり方の一つの例として、それが正しかったのか、どんな社会的影響があったのか等々を研究をしてくださらないだろうか。ホール論としては案外根源的な問題だと思うのだけれど。活きているものは研究評価しにくいだろうなと思っていたので。