児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

林美智子(MS)の日本語

2007年03月31日 | 徒然
今日は、津田ホールにメゾの林美智子さんのコンサートを聴きにいってきた。ソニーの0才前のコンサートというのは所謂マタニティコンサートである。実際、産婦人科の先生の講演20分が後半の最初にあり(これはマタニティコンサートの定番である。昔企画をしたことがある。懐かしい)、もうこういう話しに関係ないに違いない身分としては、身の置き場に困るのでないかと思っていたのだが、思いのほか最近の妊娠から出産の様子がわかって面白かった。会場は夫婦連れがやはり多かったが、昔カザルスホールでやったときのような一種独特の濃ーい雰囲気ではなくずいぶん薄まっている感じがした。これも時代なのでしょうか。
林さんは、声量も立派だが(津田ホールの前の方の席だとPAが入っているのかと思うほど音に拡がりがある)、日本語のことばの綺麗さは聴いていて気持ちが良い。素人考えでは、日本語のように母音が優勢なことばでは子音から母音にいく経過のところが難しいのではないかと思うのだが、比較的自然に聞こえた。日本の歌曲ではすこし大きすぎるかと思えるほどの声の身振りの豊かさが気持ちの良い2時間のコンサートだった。





佐久間由美子さんのスタジオ

2007年03月25日 | 徒然
トリトン名物、育児支援コンサートが終わったところである。
知っている人も多いと思うが、このコンサート、本当は、親子コンサートではないし、こどものためのコンサートと言うわけでもない。育児中のママとパパのためのコンサートである。とはいえ、親という身はどうしてもこどもの幸福を考えるし、自分だけが楽しむと言うことにちょっと躊躇もある。だから後半は一緒に聴いてもらおうと言うことにして、絵本をフィーチャーすることにしている。
前半は、小学生以上のこどもは会場内で、幼稚園くらいの子は別室で4組に分かれてそれぞれ、コンサートを楽しむ。スタジオでのこどもへのコンサートはほとんど幼稚園へのアウトリーチさながらになるのである。
今日の4歳児の部屋は佐久間由美子さんが担当した。お弟子さんの斉藤光晴、興梠由貴子さんが手伝ってくださって、以下の曲などを演奏した。
モーツァルト:魔笛
ドップラー:アメリカンファンタジー(今時に言えばアルプス一万尺ですね。ヴァイオリンにもアメリカの思い出という変奏曲がある)
ビゼー:カルメン
テレマン:トリオソナタから
クーラウ:トリオから
斉藤さんのこどもとのやりとりは秀逸。もう少し考えるともっと良くなると思った。
数人、親と離れるのをいやがった子がいたが、4才のこどもたちの反応もとてもよく、楽しい時間だったようだ。


かぼちゃすーぷ

2007年03月24日 | 徒然
今年の第一生命ホール(トリトンアーツネットワーク)の育児支援コンサートは、あさって25日の15時が本番。本命は「かぼちゃすーぷ」と言うイギリスの絵本と木管5重奏(ピアノ付き)とのコラボである。と言ってもコラボの部分は13分強。今日のリハーサルでもとても良い感じに仕上がりつつある。
この絵本は非常に絵が綺麗。「コショウで決まり」と言う続編とそのまた続編が出ているので楽しみな作家であると言えると思う。
語りをやってくれる山下千景さんとは、4年ぶりくらいのつきあい。かつての仲道さんとの企画の大事なキャラクターのひとりだった。佐久間由美子さん等の木管5重奏ははじめてだが、佐久間さんと高橋さんの登場は2回目だが、この木管5重奏の面々、こういう企画は引き受けてくれるか、ちょっと話すのをびびってしまう相手だが今回は心良く引き受けてくれた。前半ホールで大人用プログラムを弾くクラの高橋さん以外の4人が前半はそれぞれ子どもの部屋(スタジオ)を担当してくれるというのも嬉しい事である。

実は1月の打合せで、山下さんから「椅子の上に大きなカボチャがあるといいよねえ」という発案があり、その段階では良いね良いねと盛り上がったのだが、その後ちょっと忘れていて、本格的に探しはじめたのは水曜日。かつて富山県入善で巨大カボチャの品評会のようなものがあった(入善は実はジャンボスイカの名産地でもある。毎年湯布院音楽祭にはこのスイカが届くことになっている)と聞いていたので、入善のホールのS氏に探してもらったところ、午後にこんなに立派なカボチャが到着し、早速リハーサル中の舞台に設置することとなった。運賃はそれなりにかかったが、こんな重いカボチャを届けてくれた日通さん(佐川も大和も断られた)ありがとう。それよりも、季節はずれのこの時期に探しておくってくださったS氏と、カボチャを提供してくださった杉田弘志さんに感謝である。
さっき持ち上げようと思ったのだが、大きいのと重いのとで、ぎっくり腰になりそうだったので断念。
舞台上の雄姿を見よ。やはり存在感があるねえ。

きれる客

2007年03月21日 | 徒然
 朝日新聞の、きれる聴衆の話題はどうも理解ができないことがあるのだけれど、それも自分が年寄りになったということの証かもしれない。昔はライブの集団催眠的なほうが心配だったのだけれど、聴き手が有能になったのか演じ手のカリスマ性(この言葉も検証しないとね)が薄れたのか。
 渡辺和氏のブログを読んでいてなるほどとおもうのだが、それで思い出したこと。
http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/2007-03-21

 昨年の夏前にある人から聞いた話で、やや旧聞に属するがこんな話題があった。
 演奏家がサイレント楽器(ヴァイオリンとかチェロとか)を使って、客がみんなヘッドフォンで音楽を聴くという音楽会があった、という話。現場は当然見ていないのであるが、何百人の客がヘッドフォンを耳に聞いている静寂をイメージして案外気持ちの悪さを感じたので、なぜだろうかと考えた。考えたのは、「ライブ音楽を聴くということはどういうことか」ということ。その話をしてくれた人も、判断に困るといっていたが・・

1、演奏家と聴き手が空間と時間を共有する
2、演奏家がその場で行う音楽行為が基本でありスタートではあるが、演奏家と聴き手はお互いに交流をする(演奏家の音楽と気配、客の気配が行き来する)
3、演奏会において演奏家と聴き手は一対一の関係であるという要素が色濃くあることは否定できない
4、同時に空間を共有することで聴き手と聴き手との関係も生まれる

 ヘッドフォンで聴くことは、CDとかipodとかではみんながやっていることで特に目新しいことではない。普通はそれとライブは別・・と分けるのであるが、このケースはライブとして1と3は少なくとも間違いなく果たされている。2と4はあんまりないといえるとおもう。きれる客は4の問題と考えるのが妥当だろう。客にとって演奏家は必須だが横の客は必須でない(もしかすると必須だが自分の都合に合致した人のみ必要?=でもそれは現実的ではない)、ということが本当なのだろうか。
現実的な解決は渡辺氏の言うとおりかもしれない。しかし、経済的な理由ではない部分でも本質的に音楽会を聴くという行為のなかに、集団で聴くことの意味が含まれているような気がするのだが・・。


草野心平さんの気

2007年03月21日 | 各地にて
いわきの草野心平記念文学館に行ってきた。
いわきの北の方、昔の小川郷と呼ばれていたところに草野心平の生家と記念館がある。生家は線路際の町の中。記念館は多分、小玉ダムを作ったときに一緒に計画した記念館である。
山の中腹の記念館の展示はなかなか良いと思うが、そこに彼の気のようなものがあるのだろう。来館者が作った詩というのが、ミニ展示になって置いてある。全体にかなり影響を受けているような気がする。たとえば写真(とても見にくくて申し訳ないが・・。左下に小さく「人」と書いてあるのが秀逸。
いわきゆかりの人なのでちょっと気にしておかなくては・・


アクアマリンふくしまのバックヤードツァー

2007年03月19日 | 各地にて
 いわきの湯本温泉です。4月からいわきの新しいホールの仕事をするので、一度連れてきておかないとと思って・・。夫婦で温泉など何年ぶりだろうか。
 さっきアクアマリンふくしまという県立の水族館に行ってきました。
 そこで早速バックヤードツアーというのに参加、といっても参加者はふたりだけ。説明はボランティアのTさんという方がついてくれて約30分間。水槽を裏から見る、魚を搬入するクレーンのようなものを見る、水温を管理している部屋、えさの管理をしている部屋、水槽の水の汚れをクリーニングする装置をみる。標本を見るなど。水族館もバックヤードは表側の約2倍の広さがあるそうで、そのあたりは会館とも似たような感じがしました。
 このボランティアの方は、60才くらいだろうか?一般の方で特に専門的な知識はないけれども、研修を受けこのガイドツアーを受け持っているとのことです。こういう人がどのくらいいるのか、とか瞬く間にいくつも出てきた疑問を話すほどの時間もなかったのでそのままで帰ってきましたが、やや数字などが不正確なきらいはありましたが、館でガイド用に作られた(のでしょう)写真付きの説明カードを手に一生懸命説明してくださいました。
 こういう部分のヴォランティアはまだ会館ではあんまり出来ていないのですが、ちょっとやってみたくなりますね。
 この水族館は、シーラカンスの研究でも有名ですし、来館者がそれもリピーターも多いと言うことなので、日本の水族館の中では比較的注目されている筈です。子どものための「海と遊ぶ、まりんホール」という部屋も用意されていて、研究から普及までのバランスの取れている水族館のように思います。写真はボランティアのおじさんと。

 明日は、いわきの平市民会館のラストデイのイベントです。古くてボロい、何もないと言われながらも、案外市民に愛されていた場所のように思われるので、その最後を市民がどのように見ているのかは、新しい会館にとって重要なポイントのような気がします。明日はそれをみておきたいと思ったのです。
 今度の新会館(いわき芸術文化交流館ALIOS)は、この市民会館の建て替えで、まず、駐車場部分だった市民会館の横に大ホールを建設し、市民会館の場所に演劇用中ホールを作るという構想です。大ホールは来年4月、中ホール部分は翌年4月の開館です。実質的な会館の閉鎖期間を短くするための策ですが、あんまり無かった方式ではないかと思います。


北九州のガラコンサート

2007年03月18日 | 各地にて
 すでに何回か書いたように、北九州市の財団は、「響ホールがやってくる」というキャッチでアウトリーチ活動を今年始めている。今日は「響ホールに行ってみよう」というタイトルで、今年アウトリーチ活動をしてくれた演奏家のガラコンサート(ジョイントですな)が行われて、今年度の活動を終えた。東京からはヴァイオリンの大森潤子さんとピアノの竹村浄子さん。地元の4組の中から今年は、ピアノの笹部聡子さんとソプラノの持松朋世さん(ピアノは山本佳代子さん)。
 子どもも思ったよりもたくさん来てくれていたし、まあまあのスタートだったと思う。子どもが思いのほか静かに聴いていてくれるのは、アウトリーチの成果なのかそうでないのかはよく判らないが、とりあえず、親に無理矢理連れてこられていやいや来ている感じではなく、子どもの多いわりに良い雰囲気に終始した。響ホールとしてもあんまり普段は見かけない顔が多かったようで、やや慣れない感じはあったが、それはそれで大いに意味があったように思われる。
 地元のお二人も、アウトリーチでは見せない緊張感のある演奏だった。アウトリーチとの落差が大きければそれがまた驚きとなって心に残ってくれる、と信じているのだがどうだろうか。
 響ホールで仕事をするのは本当に久しぶり。昨日のリハーサルから付きあっての印象は、このホールは本当に良い音響性能だと思うのだが、演奏家の立つ位置、客席のフロアーによって音やバランスがずいぶんと変わるのである。善悪ではないとはいえ、立ち位置によって音が違ってくると思えば、いろいろと工夫をしたくなるのが人情。その中でそのアンサンブルに一番良い状況が作れれば、これは制作的には冥利なので、ついいじってみたくなるのだ。その辺はかつてのカザルスホールと同じような面白さと難しさがあるホールだと思った。
 今日の曲目
1,ミヨー:スカラムーシュ(笹部+竹村)
2,ショパン:前奏曲集から(竹村)
3,中田喜直:マチネポエティックによる4つの歌曲
      :悲しくなったときは
  滝廉太郎:花
  ヘンデル:この胸に息のある限り
  プッチーニ:私のお父さん、ある晴れた日に(持松+山本)
4,リスト:愛の夢第3番
     :スペイン狂詩曲(笹部)
5,クライスラー:プニャーニの様式によるメヌエット
  パガニーニ:ラ・カンパネラ
  ラヴェル:ツィガーヌ(大森+竹村)

でした。 

「春の声」幸田のジョイントコンサート

2007年03月12日 | 徒然
昨日は愛知県幸田町民会館で、本年、オーディションをして選ばれた3組の演奏家によるジョイントコンサートがあった。彼らは2月にそれぞれ幸田の小学校低学年のクラスにアウトリーチをしてもらった人たちである。
初めはACOのアンサンブル。ACOは愛知室内オーケストラの略である。愛知県芸の出身者によって設立したオーケストラ。中京圏で3つめのオーケストラと言うことになるか。まだまだ若く未成熟なところもあるようだが、いろいろな意味で前向きである。彼らには、同じメンバーで室内楽をすることを条件に今回加わって頂いた。地方に行くと、オケでなくても、団体名があってメンバーや編成は融通無碍、と言うグループが案外多いのである。言い方が悪くて恐縮だがこれだとほとんど置屋みたいになってしまう。それではこちらが一生懸命グループの音楽構成や進行プランなどをサジェストしても、メンバーが替わってしまうことで全然意味をなさないことが起こりうるので、基本的に同じメンバーで演奏してもらうようにお願いしている。彼らは諸事情があって今回のコンサートは弦楽5重奏で参加した。モーツアルトの5番。表現の幅とかつっこみはまだまだだが、思ったよりも作れている印象。クァルテットをもっともっと経験していって欲しい。
2番目は花音というソプラノ2、ピアノ2、ヴァイオリンというグループ。こういう編成は、結局ジョイントコンサートの中のジョイントのような感じになってしまううらみがある。アウトリーチの時は、2年生の子どもたちがとても楽しげに聴いていたのが印象的だったのだが、今回の一組30分のコンサートではちょっと散漫になったしまう感じがした。ただ、彼らは経験も充分で、きちんとした考え方を持ち活動しているのが好感を持てる。
3番目は木管5重奏と歌とピアノという編成のアンサンブル・シェリー。最後は語り付きで「くるみ割り人形」の組曲。歌の人の打楽器演奏は秀逸で素人裸足である(勉強したと聞いた)。工夫もあり楽しく聴かせたいという意欲があるが、もう少し深く考えるともっと良くなるはずである。ピアノもきちんとしているが、この木管の5重奏はいいと思う。普段の活動ではこの編成がやりやすいのかも知れないが、木管5重奏だけをもう少し掘り下げてみたいという気持ちにさせる。

最後に全員で演奏できるものをと言うことで、幸田に予算を出して頂き、一曲全員で演奏できる曲を編曲してもらおうと思った。コロラトゥーラがいるので、やはり明るい「春の声」が良いかなと思ってお願いすることのした。
私の思いとしては、このジョイントコンサートはそれぞれがクラシック演奏の力量を見せる場所と認識しており、最後くらいはリラックスしてもらって・・という感じだったのだが、そうでなくても充分にバラエティに富み楽しいコンサートだったと思う。

地域で良い演奏家と良い演奏会と聴き手を増やしていきたい、という気持ちで手伝っているこの「アウトリーチ環境整備事業」(まあなんと役所的なタイトル)。きちんとしたリサイタルが出来る個人やグループが増えていってもらわないと、いつまで経っても地域の環境は良くならない。
また来年も新しい挑戦をしてもらって、アウトリーチもコンサートも楽しくやりましょう。きちんと考えて行けば、アウトリーチはいくらでも実験が出来るのだから・・。



マイクを使わない範囲

2007年03月09日 | アウトリーチ
アウトリーチで学校に行こうとするとき、必ずぶつかるのが「全校生徒に聴かせたい」という校長先生の声である。はじめはこれを乗りこえるのはなかなか難しい。事は音楽観に関わる問題なのである。
トリトンでは最近そのような事は少なくなったが、初めは担当者が狭いところが良いのです!とねじ伏せていたような感じもある。
私が小学校の生徒だったとき私のクラスは60名の子どもがひしめいていた。私はずっと壁に背中をくっつけて授業を受けていた(今も背中に壁があるのが好き)。
今は40名がマックスで20人強のクラスもある(41人になると2クラスになるわけだ)。それでもまだ多すぎて先生の気配りが回らないと言うことで、副担任を置いたり30人学級を採り入れたりしているところもある。授業をやるのにはそのくらいの人数でないと・・というのがその理由なのであるが、何で音楽だけは何百人で良いのだろうか?
それは、音楽を聴く、ということへの考え方の違いであろう。まあ、現実に2000人のホールでアコ-スティックで演奏をしている、というか出来る楽器を持ち込んで行うアウトリーチでは、もっと大きな空間と人数でも聴かせることが出来るであろう・・と考えるのはもっともである。しかし演奏する側からは「それならばホールで聴いてほしい」と思うだろう。アウトリーチで学校に行くのは、また別のミッションと思いを届けたいと思っていくのである。
それは何かということはさておき、アウトリーチでは語りかけ、自分の思いを判ってもらう必要があり、そのために言葉が必要なのである。特にアウトリーチの聴き手はそのために集まった音楽ファンというわけではない。抽象的な音楽というジャンルを聴くことは、それに気がつくフックのようなものが必要で、それを判ってもらいたくて語りかけるわけだ。

最近読んだ竹内敏晴氏の本の中で、「私はマイクは使わない」ということが書かれてあった。語りかけるとは、全人的にものが伝わるための方法である。マイクを通した声は方向性がないので意味だけしか伝わらない。自分に向けて話しかけられた言葉と感じることはほとんど不可能だろう。
彼のワークショップでは、様々な方向を向いて座っている人に語りかけるという事をやっている。話す方は当然ある人に向けて呼びかけるのだから、その人は答えてくれるものと思っているが、多くの場合、聴く側は自分に向けて語られた言葉だと思わないのだそうだ。
アウトリーチは演奏家が語りかける、という強い方向性を持った手法である。言葉で語り、それによって気がついてもらうわけである。もちろん演奏も大事で、コミュニケーションをより強く求めるところにアウトリーチの良さがあるのである。そのためには、マイクを使わなくて良い大きさと距離というのが重要なポイントになると思う。
音楽室でなるべく少人数で・・というのはそのためだ、と言いきれるくらい演奏家の意欲が強いともっともっと良いことが出来るとおもうのだがなあ。

新潟ワンコインコンサートのオーディション

2007年03月05日 | 各地にて
新潟市りゅーとぴあでは、5年ほど続けているワンコインコンサートの30回記念の出演者を公募で選んで出演してもらう、ということを次年度することになり、その審査を頼まれた。うーん、本当に私で良いのでしょうかねえ。
 新潟のワンコインコンサートは、毎回の入場者もそれなりに確保されているし、ブランドになりつつある、と新潟の人たちは思っていて(実際にそうだが)、そこに新潟に縁のある優秀な若手演奏家が参集するイメージがあるのだと思う。
 オーディション形式なので、その企画に一番向いているであろう人を選ぶ、という事になるわけだ。コンクールのように一番演奏が上手な人を選ぶのでも一番口が達者な人を選ぶわけでもないので、ある意味で気が楽といえば楽ではある。そこが、主催者オリエンテッドなオーディション形式の良いところでもあるが、そのぶん、主催者が、その企画の価値観の基準について、かなりきちんとしたコンセプトを持つ事を要求される。 同時に審査する側の価値観も自分で明確にしておかないとまずいというプレッシャーも感じないではない。今まで継続してきた20数回のワンコインコンサートの人選を見て、そのコンセプトを類推しなくてはいけない、というのも審査委員に課された宿題であると思うので・
 2月はじめの第1次ではそれなりに票が割れて面白いといえば面白かったが、2月末の本選でも接戦であった。
 財団では、演奏の実力もあって話しも上手な人を探そうとしていたのだが、まあなかなかそれは難しい。単に話がうまいだけではこのようなミッション性を持った企画の話がうまく行くというわけではない。結局、選んだ人にはアウトリーチなどですこし話す経験を積んでもらうのが良いのではないかということになった。アウトリーチの方がターゲットが明確でテーマを絞りやすい傾向があり、経験を積むのには良いと思うのだ。