児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

現場のアウトリーチ政策

2009年04月16日 | アウトリーチ
和光市文化会館の方と話をする機会があった。
彼女はアウトリーチの担当をしているそうだが(どうもそれだけではないらしいけれど)とっても現場乗りの方。ということは現場系の愚痴もたくさんあるけれど基本的には前向きで現場的にはよく考えていて工夫もしている、ということでもある。
おんかつをその初めの年(98年)に和光市でやったのだけれど、私もあんまり記憶がない。ただ、あの大きいホールで中鉢くんと河野めぐみさんのデュオコンサートがあり、二人の声が大きな空間で響いていく様子を聞いて、多くな空間を埋める演奏力、というのを感じた事だけはよく覚えている。小さな会館で聴くことが多い音活事業では、こういうのは新鮮であるし、それが本人の本当の意味の地力を現すことを感じた。ただ、そのときのことは後継者には全く伝えられていなくて、彼女は一種無手勝流でやってきたと言うことだ。
何で和光でアウトリーチを始めたかということは実は良くわからないのだけれど、指定管理を取るときにそのような事業計画を出したもののようだ。こういう事は実は随分ありそうだ。今、指定管理の時に地域の市民参加とかアウトリーチとかが事業の方針として謳われることは多いみたいだ。これは、民間の業者が出す計画書にも色濃くでているみたいで、ある調査では、市民を意識した事業に強い意欲があると答えている割合は民間の指定管理者の方が高いらしい。民間の会社はそのときの社会の動向とか、持ち主の意向(であろうと考えること)にとても敏感であるから、財団などよりもそのことを書くことが多いというのは、その辺が審査の判断基準になると考えているからに違いない。
アウトリーチ活動が盛んになることは良いことではあると思うけれども、かつての音楽教室の低調から一歩進めた事業をしたいと思ってアウトリーチに取り組み始めた人間にとっては、心配なことが多い。そのくらい油断が出来ない事業なのである。やることは絶対的に良いことなので誰も文句を言わないものね。杞憂なのかもしれないけれど、誰のために、どのように行うかという意識付けを強くしていくことで、演奏者にも相手にも伝わることが全然違うというのが大事なことだと思う。
当然、アウトリーチでも質感は非常に大事である。質感というのは3つの意味がある。演奏の質と構成の質、そして企画制作の質。3つを一緒にクリアできたものを良い企画というのだと思う。そのために私たちコ-ディネート側は何をすればいいのか、何が出来るのかというのが一番の問題なのである。

大村シーハットの館長

2009年04月11日 | 徒然
カザルスホールで一緒に仕事をした村島寿深子さんは、かつて、芸大を出た後、移民船でアメリカに渡りミュージカルの勉強をした。ニューヨークでは何度も主役で歌ったりしていたみたいで、ユル・プリンナーと共演したこともあるという人なの。1980年代後半に帰国してからは通訳からプロデュースの仕事で、一所懸命に引き受けてくれる人柄の良さが特に演奏家の信頼を勝ち得ていた。彼女のあり方は現場でこういう仕事をしている人間にとって手本になるような仕事ぶりだった。7年ほど前に出身地、大村市の市長に請われて大村市の文化スポーツ施設である「シーハット大村」の館長になり、長崎県の中でも独特の事業展開で存在感を示している。長崎市で仕事をしていても時々話題になる。
先日(7日)、プライベートで長崎旅行をした途中に会館によって久しぶりにお会いした。彼女が大村に行って一番の企画は「大村にプロのオケを作ること」だった。まだチェンバーオケだし、苦労もしていると思うし、レベルもまだまだ満足していないと思うけれど、とりあえず、長崎県で一定のレベルの演奏を担保できるオケのベースがあると言うことは偉大なことである。それをまずはやってしまうところが村島さんらしい。指導陣に迫さんとか松原さんとかをいれ、カザルスの時の人脈で原田さんとか、相沢吏江子とか、メネセスとかを呼んで事業をしているのをみるとある意味うらやましい。演奏家と何かを創り上げていく、という高揚感を持てる仕事ができることはプロデューサーの本意であろう。
今回も不意に訪ねたときは電話中で、オケのコンマスの活動を心配して話していた、と言っていたけれど、久しぶりに彼女と話していて、そのこころざしと夢の広がりが依然衰えていないのをみて舌を巻いた。まだミュージカルの指導も現役でしているし・・・。こういう歳のとり方も良いなあと思えるひとに会えるのはうれしい。