Our World Time

いのちの表現

2005年03月04日 | Weblog
▼2005年、平成17年の2月28日、月曜日。
 朝の飛行機で大阪入りする。

 2月25日の金曜日深夜、正確には2月26日土曜日未明の『朝まで生テレビ』に(あたりまえながら徹夜で)出演してからこっち、ほとんど睡眠時間が取れないままだから、ほんとうに眠い。
 せめて飛行機やタクシーのなかでは眠りたかったけど、書くべき原稿が遅れに遅れているから、おのれを叱咤激励して、モバイル・パソコンを膝のうえで開いて、執筆する。

 そして、そのまま関西テレビ『2時ワクッ!』に生出演。
 司会の山本浩之アナウンサーに、番組のオープニングでいきなり「青山さん、しんどそうな顔をしてますね」と言われてしまった。

 それでも、番組は、おそらく視聴者にとっても楽しく進行したのじゃないかなと思う。
 それは、山本アナ、それに藤本景子アナのコンビのみごとなプロフェッショナリズムのおかげも大きいし、出演者がみな、このごろ本心から和気あいあいなのも大きい。
 ぼくは、自分のつとめとして、時のニュースについて、この国の主人公(主権者、有権者)が、うわべだけではなく自然に「根っこ」を考える、ささやかなきっかけになるよう、お話しすることに徹した。

 TV局から真っ直ぐ、定宿のホテルに入り、原稿に取り組んで、3月1日火曜日の朝5時過ぎまで取り組み続けたけど、呆れたことに、ほとんどろくに書けずに終わった。
 こんなに忙しい年度末の時期に、こんなにひどい絶不調の夜があるのでは、とてもプロとは言えないや。


▼というわけで、あいかわらずほとんど寝ないまま、伊丹空港へ。
 よく「いつ寝るんですか」と聞かれるけど、ほんとに、いつ寝るんだろうね。
 一瞬だけウトウトしたり、そんなことの小さな積み重ねで、なんとか睡眠を取っているようだけど、猫じゃあるまいし、いつまでこんなことが続くやら。
 それでも、躰は、しっかりと耐えてはいる。

伊丹空港から、青森県の三沢空港へ飛ぶ。
 機中では再び、原稿の執筆。
 いつも行き来する空路に比べて、かなり狭い飛行機だったけど、あまり揺れなかったこともあって、快適だった。
 雪に覆われた佐渡島が、手にとるように見え、曽我ひとみさんの暮らしを思った。

 三沢空港は、民間、自衛隊、米軍の3者が使っている空港だ。
 電子偵察機や戦闘機がしきりに、離発着する。JAL機の離発着より、ずっと頻繁だ。
 航空自衛隊より、特にアメリカ海軍、アメリカ空軍の動きが活発にみえる。
 具体的な根拠はないが、専門家としての勘からは、おそらく通常より激しい動きをしている。

 もちろん、ロシアの動きを監視するより、北朝鮮の関連だろう。
 アメリカが北朝鮮に何かが起きつつあると疑っている、ないしは起きつつあることを知っている気配を感じた。

 この三沢空港のレストランで1時間ほど待ち、東京からいらっしゃる高名な女性評論家(ノンフィクション作家)らと合流した。
 そしてマイクロバスに乗り、青森県・六ヶ所村の核燃サイクル施設へ向かう。


▼マイクロバスのなかで、独研(独立総合研究所)から配信している会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)の仕上げにかかる。
 原稿ができあがったら、Air-H(パソコン用の携帯接続ギア)を使ってモバイル・パソコンをネットに繋いで、独研に送信し、独研の総務部から全国の会員へ一斉配信する。
 このごろ配信が滞っているから、どうしても配信したい。

 マイクロバスが核燃サイクル施設に着けば、すぐに視察や意見交換会が始まるから、チャンスはほぼ一瞬、バスが施設に着く直前しかない。
 バスが施設に着くまえは、野山を走っているのだから、Air-Hは繋がらない。
 施設に入れば、おそらくAir-Hは繋がるけど、バスを降りたら、もう繋いでいるひまはない。

 だから、必死で執筆を続ける。
 青森は記録的な大雪のさなかで、マイクロバスはかなり激しく揺れる。
 そのなかで、ちいちゃなモバイル・パソコンに向かっているから、ときどき気持ちが悪くなりそうになるけど、気持ちが悪くなっているヒマもない。気にしてる場合じゃない。吐き気は自然に引っ込む。

 まさしくバスが施設に着く直前に、原稿(北朝鮮をめぐるレポート)が、自分でも納得できる仕上がりになり、バスが施設のゲートを入るときにネットに繋いで、奇跡的に原稿送了。
 ほっとして、すこし嬉しく思ったけど、嬉しく思っているヒマもなく、視察へ。

 核燃サイクル施設を訪れるのは、去年の5月以来だ。
 いまは雪に埋もれている施設は、従業員のモラル高く、ウラン試験の真っ最中だった。
 IAEA(国際原子力機関)の査察などについても、突っ込んだ質問をする。

 ぼくは日本の核武装には、あくまでも反対する。
 しかし、中国やアメリカ、インド、パキスタンをはじめ少なからぬ国が公然と核兵器を製造しながら、日本に対しては、ここまでやるかというほど厳重にIAEAが「原子燃料を核兵器製造に転用しないよう」監視している現場を見ると、にんげん社会の滑稽なまでの矛盾を感じないではいられない。

 なぜ中国が良くて、アメリカが良くて、日本はいけないのか。
 まともな説明ができるはずはない。
 たとえば中国は一党独裁の国家であり、いまの日本は、あくまでも公平にみて中国よりはるかに民主主義が確立されている国だ。
 こういう矛盾が正当かのように国際社会も日本政府も装っているから、ぼくのような「日本の核武装を否認する」立場の論者も、内心でげんなりする。

 それでも日本核武装論と厳しく対峙する姿勢は、ぼくが生きている限り変えない。
 しかし、先の戦争の血であがなって民主主義を確立した日本を、まるで『ならず者国家』のように監視するIAEAは、ありのままに言えば偽善である。
 IAEAは最近、さすがに日本に対する監視をすこし緩めたが、六ヶ所村のような現地を訪れてみると、いやいや、依然として馬鹿馬鹿しいまでの『危険国家』扱いの監視ぶりだ。 
 キミたち、ほかの国でほかの仕事があるだろう。それを、やりたまえ。


▼視察や意見交換を終わり、夜には、地元の農家のひとびとらと懇談する。
 ぼくは、この人々をこころから敬愛しているから、地酒を交わす盃もすすみ、またまた大酒を呑んでしまった。
 ぼくの呑んだ分だけでも、一升は軽く超えている。
 一緒に行動している高名な女性評論家らも、楽しげになさっていた。

 しんしんと、と言うより激しく雪が降りつのるなかを夜遅く、三沢市内の宿に入り、さすがに寝込んでしまう。


▼それでも翌3月2日水曜の朝、いや未明の4時まえに起き出して、原稿を書き続ける。
 返信が滞っている電子メールに、いくつか返事を書く。大半のひとには、返信を出せないままだ。こころが痛む。
 やがて朝陽に外の雪が明るく輝きはじめた。

 意外にも、二日酔いは、気配もない。
 こないだ長野の講演先で、一升半ちかくを呑んだときも二日酔いがちらりとも起きなかった。
 なぜかな。気合いが入っているのかな。そのわりに、仕事の実はあがってないぞ、おまえ。

 青森空港へマイクロバスで向かう途中、凍った沼のほとりで、シジミが満載の名物ラーメンを食べ、沼の氷のうえ、つまり水のうえを散歩する。
 核燃サイクル施設に技術協力で来ているフランス人が近寄ってきて、フランス語なまりの英語で「ぼくらはもう、水のうえにいるのかい」と聞いてくる。
 ぼくは、自分でも嬉しげに「そうそう」と答え、「たぶん安全だよ、たぶんね」と、このフランス人をすこしだけ、からかう。
 原発大国フランスから来たこのひとは、おっかなびっくり足元を見ながら、それでも嬉しそうに歩いている。

 そのあと、沼に近い日帰り温泉に、みんなで行く。
 雲の切れまに澄んだ青空がのぞくなか、露天風呂の周りにつもった雪を、ぼくは躰中にこすりつけて、湯に飛びこむ。
 思いきり冷やされた血が一気に温められて、カッと燃えるように、血が流れる。
 それを何度も繰り返した。
 からだの血流がすみずみまで蘇って、生き返る思いだ。
 頭のうえを、三沢から発信した戦闘機が、縦列編隊で飛んでいく。

 空港に着くまで、マイクロバスのなかで評論家のかたや、電力会社のひとから、「小泉首相のあとは誰?」、「ライブドアとフジテレビはどっちが勝つの?」という質問を含めて、いろいろなことを尋ねられ、ぼくなりに、できるだけ詳しくお答えする。
 天候が凄まじい吹雪に変わるのを、車中から見ている。

 空港に着いたけど、飛行機はやっぱり大雪で1時間半ほど遅れる。
 まぁ、飛ぶだけいいよ。
 ことしの青森、東北はほんとうに大雪が大変だ。これからも心配だ。

 機中では、ふたたび原稿の執筆。
 書きながら、さすがにうつらうつらしたり、ハッと起きて書いたり、新聞に目を通したり。
 夜8時ごろ、羽田に降りる直前、ぼくの棲むあたりにある観覧車の明かりが夜空に輝くのがよく見えた。 

 このごろ、独研の社外、社内ともに、試練が多い。
 経営者として、すべて受け止め、すべて知らん顔でもいなければならない。
 なんのために独研を経営するか。
 たとえば坂本龍馬ならきっと、分かってくれる。
 龍馬は、日本の開国・維新、すなわち驚天動地の改革を進める組織として「亀山社中」を同志と興した。
 亀山社中は、政治結社ではなく、日本初の民間会社だった。
 なぜ会社だったか。
 自立するために、自分の食い扶持は自分で稼ごうとしたからだ。

 ぼくは、こころのなかで、敬愛する坂本龍馬や中岡慎太郎、高杉晋作と向かいあい、独研の見えない青い旗を、捧げ持っている。


★高名な女性評論家のかたに、独研の創立の意味などを、詳しく尋ねられた。
 僭越かもしれないが、かなり共感もしていただいた気がする。

 この評論家のかたは、ぼくから「原点は、あくまで文学なんです」という言葉を聞くと、呆れ果てて大きな声を出され、「文学なんて、すっぱりやめなさい。独研の経営と、テレビに集中しなさいよ」とアドバイスをくださった。

 本気でアドバイスをくださったことに深く感謝しつつ、もちろん、ぼくの原点が文学であることは変わらない。
 書きかけのまま時間不足で凍結している短編小説を、ことし前半に、活字にしたい。

 そしてきのう、3月3日の木曜日、所用で池袋の雑踏を歩いていて、そして狭い地下の一隅にいて、ふと気づいた。
 ぼくの原点を正確に言うなら、文学と言うより、芸術だ。芸術としての文学だ。
 芸術と言ってしまうと、ふつうなら、文学と言うよりさらに曖昧になる。
 だけど、そうじゃない。
 つまり、『説明としての文学』ではなく、『自由ないのちの表現としての文学』なのだ、ぼくの目指している、あるいは立脚しているのは。

 だから小説だけではなく、独研から配信している会員制レポートも、月刊誌『VOICE』、『花泉』や週刊誌『ヨミウリ・ウィークリー』に連載しているノンフィクション記事も、すべて、もっと自由に書けばいい。いのちの自由な発露として、書けばいい。

 そのことに気づいた。
 あの評論家のかたが、「なぜ、文学なんてくだらないものに、こだわっているの」と問いかけてくださったおかげだと思う。
 評論家のかたは、純文学という分野はすでに終わった表現形式ではないかという問題意識もお持ちなのだろうと思う。

 ぼくは、評論家のかたにマイクロバスのなかで答えた。
「ふつうの神経で、ふつうの仕事もするにんげんが、新しい文学を書くことを実現したいのです」