いま二千七年、平成十九年の如月(きさらぎ)十九日の午前十時半ちょうど。
お正月に書き込んでから、一度も、書き込むことができずにきた。
年が明けて、ぼくの一身のまえの権威主義の高い壁、反権力と権力との巧妙な癒着は、いっそう分厚くなっている。
このブログに、ひとことを書き込むための数分の時間もなく、この二月下旬ちかくまで来た。
多忙には耐える。
いつか死がぼくを休ませるから。
ただ多忙のなかで強まっていくばかりの徒労の感覚と疎外感は、ほとんど誰にも話せず、正直、ここ七、八年ではもっとも苦しい時を、かろうじて生きている。
慌ただしく乗り降りする狭い機中から、よく富士をみる。
先日、いつもよりずっと南のルートを飛行機が飛び、そこから、富士をみた。
わたしたちの列島の色と姿をよく伝える半島に、ぽつぽつと雲が湧き、その向こうに小さな富士をみた。
富士を、間近な空からみることが多い。
その大沢崩れの傷の深さ、ことしの雪の薄さをありありと何度も眼にして、富士の苦しみを感じるように思うときが増えた。
それでも、小さくなった富士をみて、胸のなかの灯火が揺れた。かすかに明かりを強くした。
太宰治の「富嶽百景」を、高校生のとき感嘆しつつ読んだ記憶も、ふと思い起こす。太宰のあがることのなかった天空から、富士が、しんと清冽に鎮まっているのをみている。
富士を造った、わたしたちの列島のエネルギーは、南の硫黄島に、運命の火山をも造った。擂鉢山、すりばちやまだ。
日本国民の島に星条旗が打ち立てられた擂鉢山は、富士火山帯につながり、ぼくが訪れたときも水蒸気を、白い末期(まつご)の息のように吐いていた。
ああ天よ、ぼくのあまりに小さな命が死して地の奥に埋(うず)もれる、そのまえに、せめてひとつなりとも、われらの祖国と、それからできれば広く国境を越えた人の世に、寄与せしめよ。