前回(→こちら)の続き。
棋聖戦と王位戦で挑戦者になり、一気に二冠も視野に入ってきた2009年度の木村一基八段。
しかも、棋聖戦では羽生善治棋聖に2勝1敗、王位戦では深浦康市王位に3連勝と、どちらもカド番に追いこみ
「6番連続タイトル獲得の一番」
という状況になる。
まず、棋聖戦では第4局で、木村がいい調子で指していたように見えたが、羽生もしぶとい将棋で土俵を割らず混戦に。
図で▲57香と、羽生が受けたのが危険な手で、ここで△19角成と香を取っておけば、後手玉の上部脱出が防げず、木村が勝ちだった。
チャンスを逃した木村が、最後はらしくない受けのミスというか「一手バッタリ」のような手で、あっさりと持っていかれてしまった。
これで棋聖戦はフルセットへ。
むかえた最終局。
先手になった木村は、羽生の横歩取りを迎え撃つ。
馬を作り、じっと▲85歩と突いて後手陣にプレッシャーをかけるが、ここからの羽生の構想が見事だった。
あわてず△31玉と、ここで自陣の整備にかかるのが絶妙の呼吸。
▲84歩、△82歩、▲66馬にも、じっと△21玉(!)
ねじり合いのさなか、こうやって静かに玉を固めるのが、実戦的な好着想だった。
2筋と3筋に、歩が立たないことも大きく、後手陣は盤石。
以下△51の金も△31にくっつけて、金銀3枚のプチ穴熊を結成し勝ち切った。
あの全駒状態だった第3局のダメージをものともせずに防衛と、本当に羽生の勝負強さにはあきれるしかない。
まずこれで、「木村二冠」はなくなった。
負けたのは残念だったが、幸いなことにチャンスはもうひとつ残っている。そしてこちらは、3連勝と圧倒している。
二冠の夢は絶たれたが、ここに大きな保険が残っていた。まあ、とりあえずひとつ取って、次のことはまたゆっくりと……。
なんて考えていたら、こちらのほうでも、とんでもないことになっていた。
なんとそこから1勝がなかなかできず、ついにはこちらもまた3勝3敗で、最終局にもつれこんでしまったからだ。
流れが変わったのは第4局だった。
佐世保で開催されたこの一局は、深浦の地元ということもあって、
「ここでストレート負けだけはしてくれるなよ」
相当に悲壮感があったらしいのだ。
だがこの一番を木村は、らしくない拙戦で落としてしまい、そこから深浦の逆襲をゆるし、一気にわからなくなった。
もっとも大きかったのは第6局だろう。
相矢倉からの、両雄の汗がしたたり落ちるのが見えるかというねじり合い。
終盤は難解すぎてわけがわからないので、局面だけ見ていただこう。
形勢判断などはまったくの不可能だが、双方が「命がけで戦っている」ことだけは伝わってくる。
木村勝ちの場面もあったようだが、最後は深浦が押し切った。
大熱戦だったが、ここで追いつかれては流れは苦しい。
第7局も、横歩取りから難解な戦いだったが、木村はついに勝ち切れなかった。
まさかの、将棋界2度目の3連勝4連敗(ちなみに1度目は2008年の竜王戦、羽生と渡辺明の「永世竜王」シリーズ→こちら)。
なんと木村は、9分9厘手中に収めていたはずの初タイトルを、ここで逃してしまった。
本人も悪夢だったろうが、見ているこっちも呆然である。こんなことがあるのだろうか。
その後、木村は2014年、2016年とまたも王位戦の舞台に登場するが、ともに羽生王位に敗れた。
特に2016年は3勝2敗と、またも羽生をカド番に追い詰めただけに「ついに」と身を乗り出すも、そこから2連敗で悲願はならず。
最終局が終わった後、敗者インタビューの痛ましさは、ご存じの方も多いであろう。
またもしても、木村は敗れた。
これほどの男が、勝てばタイトル獲得という一番を8度も落とすことなどあるのだろうか。
なんだか釈然としないものはあったが、事実は事実だからしょうがない。さすがに終わったか。年齢的に2016年が最後のチャンスだったろうな……。
というのは、私のみならず多くのファンが、同じように感じていたのではなかろうか。
そこから木村は、またもよみがえった。
A級に返り咲き、挑決でも因縁の羽生を叩きのめしての復活劇。
まるで詰みそうで詰まない、木村の玉のようである。しぶといぞ。
今回、こうして木村一基の戦歴を振り返って連想したのが、テニスのフレンチ・オープンだ。
今年のローラン・ギャロス4回戦で、20歳のステファノス・チチパスは2015年チャンピオンのスタン・ワウリンカと対戦。
これが5時間9分にもおよぶマラソンマッチとなり、最後はチチパスが敗れた。スコアは6-7・7-5・4-6・6-3・6-8。
トータルポイントは勝者のスタンが194に対し、敗れたチチパスは195と上回っていた。
1時間後の会見で、チチパスは憔悴しきり、言葉を発することも苦しそうだった。
それでも涙をぬぐって、勝敗を分けたのは、わずか1センチだったと語った。マッチポイントが、ギリギリのオン・ザ・ラインだったからだ。
次の日、チチパスはツイッターで、こんなつぶやきをした。
「挑戦し、失敗してきた、それがどうした、再び挑戦せよ、再び失敗せよ、よりうまく失敗せよ」
アイルランドの詩人、サミュエル・ベケットの詩だという。これは、対戦相手だったスタン・ワウリンカの腕に彫られていたものだそうだ。
ステファノス・チチパスは大舞台で敗れて涙した。
スタン・ワウリンカもまた、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチ、アンディー・マレーの「ビッグ4」に阻まれ、長くグランドスラムのタイトルが取れない日々に苦しんだ。
スタンはその後、グランドスラム三冠に輝いた。若いステファノスも、すぐに走り出すだろう。
木村一基もまた挑戦し、失敗し、また挑戦してきた。そういえば王位として待つ豊島将之だって、少し前まではそうだったのだ。
なおも立ち上がった彼らの、その先にあるものは……。