「報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」という王貞治理論に懐疑的です

2020年09月01日 | ちょっとまじめな話

 「【無敵理論】って議論に勝ったように見せるに便利やけど、だからこそNGワードにしたほうがええよなあ」


 というのは、意見やイデオロギーがぶつかる場面で、いつも思うことである。

 前回、ウィスコンシン州で起こった、警官による黒人男性銃撃事件に抗議する大坂なおみ選手を支持したい、といったことを書いた(→こちら)。

 そこで、彼女を攻撃する声にちょいちょい見られる、

 

 「スポンサーの迷惑」

 「多くの人がかかわっているのに、その気持ちを考えろ」

 

 といった、


 「どんな意見や反論も、あたかも相手側に非があるように見せられる詭弁


 に警戒すべきと語ったが、これは本当にあらゆるところで出てくるもので、注意が必要だ。

 たとえば、偉大な人なので、名前を出すのは少々はばかられるが、王貞治さんの有名な言葉にも似たものを感じる。

 


 「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」


 

 私はこう見えて、意外と努力主義である。

 人間がんばれば、それなりに、いいことが返ってくると信じている。

 だからこそ「努力はかならず報われる」的な発想には懐疑的だ。

 努力すれば自分を高められるし、ある程度のスキルも身につくだろうし、自信を得ることも大きい。

 でも、それはあくまで「自分」がどうなるかという問題で、努力と、その結果「報われる」かは、かならずしも因果関係があるとはかぎらない。

 少なくとも必要条件かもしれないが、充分条件ではない。

 下手すると、必要条件ですらないケースもあるのだ。

 「自分を高める」は自分だけですむが、「結果」は他者など競争相手の存在や、才能出会いの有無、経済力時代の要請。

 などなど、数え切れないほどのランダムネスの介在があって、決して自分だけではコントロールできない。

 「一所懸命に勉強」すれば、たいていの人は成績が多少なりとも上がるが


 「第一志望にかなら受かる」


 かといえば、それは断言などできない。

 試験に出る問題や当日のコンディション倍率の高さや、はたまたそもそも高望みしているかもなど、「努力」でそれを「100%」にはできないのだ。

 それをつかまえて、

 

  「報われてないあなたは、努力が足りないから」

 

 ですむなら、世界のありとあらゆる、おそらくは特定不可能な様々な要因からはじき出されたはずの「結果」を「努力不足」で切り捨てられることになる。

 それは、

 

 「上に立つ者」

 「結果を出せた者」

 

 という「既得権者」にとってはいいかもしれないが、あまりにも単純で、もっといえば「都合が良すぎる」のではないか。

 これはどんな人にも、結果が出ないだけで「努力不足」って、あたかもその人責任があるかのように糾弾できる「無敵」の理論。

 正直、かなり理不尽だし、卑怯と言って悪ければ「フェアでない」と思うんだよなあ。

 どうしても、「便利すぎる」ように見えてしまう。

 だって、頭使わず「それだけ」言ってりゃいいんだから、楽なもんだ。

 また、私のようなボンクラより、まじめな人や、がんばっている人ほど乗せられてしまいそうな話なのが、困りものだ。

 「その通りだ」とか、言っちゃうんだよなあ。だまされてるよ。

 もちろん、王さんにそんな気はないんでしょうが、その構造に「気づいてない」可能性は大だし、わかったうえでマウントを取る「卑怯者」もいることだろう。

 中条一雄さんの『デットマール・クラマー 日本 サッカー改革論』という本を読むと、1936年ベルリン・オリンピックで、たまたま「報われた」(はっきり言って大まぐれで)メンバーたちが、いかにそれを振りかざして、日本サッカー発展の足を引っ張ったかよくわかる。

 結果が「努力」だけで生まれないことは、

 

 レナード・ムロディナウ『たまたま

 フランス・ヨハンソン『成功は“ランダム”にやってくる!

 

 とか、いろんな本に書いてある。

 あのダウンタウンの松本人志さんですら「芸人が売れるのは」と言っているのだ。

 昨年、はじめてタイトルを獲得した将棋の木村一基九段は、それまで6回も挑戦に失敗してきたが、その理由が、

 

 「今は努力したが、昔は努力が足りなかったから」

 

 では絶対ないはず。

 あまりにイノセントすぎる考え方だし、なにより、そんなのは木村九段に対して、あまりにも失礼ではないのか。

 芦田愛菜さんのように、この言葉に感銘を受け、礎にしてがんばっていくというのは、すばらしいことである。

 けど、だれかが「結果」を出せなかったり、「報われなかった」と失望したり、その実力や才能よりも得られるはずの実りが少なかったとて、それを、

 

 「努力と呼べない」

 

 で片付けてしまうのは、


 「なーんか、それだけではねーんでないの?」


 と感じてしまうのだ。ハッキリ言って、論点のすり替えでしょう。

 

 「努力はかならず報われる」

 「失敗したのは、自分のがんばりが足りなかったからだ」

 

 というのはシンプルでわかりやすく、ある意味「美しい」言葉なので、人が惹きつけられるのは理解できる。

 だからこそ、警戒が必要なのだと思うのだ。

 チェスの元世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフ氏も「才能」や「努力」「結果」というものを、道徳的観念単純化すること、つまり、

 


 「X選手のほうが才能があるのにY選手が勝った。それはY選手の努力が上まわったからだ」


 

 という言い回しを、



 「いささか滑稽に聞こえる」



 と著書の中で書いている。

 世界はもっと複雑で、個人の能力や感覚や経験では、はかれないことが山のようにある。

 それを無視して「努力不足」の一点で人を断罪するのは、

 

 「一瞬、いいこと言ったように見える」

 

 という誘惑はあるけど、「フェアでない」し、不幸の総量をいたずらに増やすだけ。

 場合によっては視野狭窄におちいり、


 「原因の究明」

 「改善策の検討」


 といった健全な考えを「見ないふり」したり、最悪なのは「言い訳」「サボり」と決めつけたりしがちだ。

 そうなると、結果的に「報われる」とこからも遠ざかる恐れがあるから、私は今ひとつ懐疑的なのだ。

 

  


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