前回の続き。
1986年の新人王戦。
羽生善治四段と、中村修王将との一戦。
タイトルホルダーと未来のタイトル候補という好カードは、期待にたがわぬ好局となる。
双方、指す手が見えにくい局面で、△95歩と端を突いたのが、中村のセンスを見せた手。
専門的には「手として有効である一手パス」という、ややこしいものをひねり出さなければならないという、激ムズな中盤戦だったが、そこで見事な「正解」を出したのはさすがであった。
だが、それに対する羽生の応手が、またすさまじい。
▲95同歩が、「らしいなー」と声をあげたくなる一手。
といっても、端を突かれたから取っただけで、なにをそんなに感心するのかと思われる方もおられるだろうが、これは感嘆を呼ぶ手であり、同時にものすごく「羽生らしい」手でもある。
この難解な局面で遅いような、それでいて、あせらされる手を見せられたら、この手番を生かして、なんとか少しでも攻めたくなるのが人情だ。
そこを、じっと自陣に手を戻す。
デビューしたての若者が、タイトルホルダー相手に、
「どうぞ、好きに、やっていらっしゃい」
その、ふてぶてしさと、
「パスしたい局面で手を渡してきたなら、こっちも同じような手で返せば敵は困るはず」
という論理性を内包した、実に味わい深い一手なのだ。
将棋は好きだけど、あまり指すことはないタイプの「観る将」の方に私はよく、
「たまには実戦も、指してみるのもいいですよ」
オススメするのことがあるんだけれど、それはゲームとして面白いのはもちろんだが、それともうひとつ、実際にだれかと指してみると、この▲95同歩のような手の魅力がわかるようになるから。
これがねえ、自分で指してると、ホントしみじみ理解できる。
自分が先手だったとして、「格上」の人相手に△95歩みたいな手を指されてですねえ、それを堂々と取るのはムチャクチャに勇気がいるのだ。
だって、その瞬間になにをされるのか、わかったものではない。絶対、オレの読んでない手が飛んでくるに決まってるんだ。
そんな疑心暗鬼におちいりながら、なにかあせって単調な攻めの手を指して、あっという間に負けてしまう。もちろん、この局面の中村もそれを誘っている。
そこを完全に看破し、タイトルを持って勝ちまくっている先輩相手に、
「おう、来いよ、ビビってんのか?」
みたいな態度で▲95同歩と取れるのが信じられない。
よほど自分の読みに自信があるのか、それとも天才となんとかは紙一重なのか。
きっと両方なんだろうけど、なんかもう、とにかくシビれる一着なのであり、ぜひこの興奮を「観る将」の人たちにも味わってもらいたいですよ! いやマジで!
こんなことをされては、さすが温厚な中村王将も怒るというもので、△86歩、▲同歩に△85歩から騎虎の勢いで襲いかかる。
少し進んで、この局面。
玉頭を銀で押さえ、2枚の角が急所に利いている。
香も取られる形だし、並みならつぶれているところだが、なかなかどうして、先手もくずれない。
▲77金寄が、力強い受け。
金を連結させながら、頭を押さえている銀にアタックをかけ、これで先手陣はなかなか寄らないのだ。飛車の横利きも、なにげに頼もしい。
△同銀成は味を消してつまらないと、駒を補充しながら△95銀の転進に、今度こそ攻めるのかと思いきや、そこで▲47歩とまたも催促。
これがまた、強気というか、なんと言うか。
こんな受けになってるかどうかわからない手で、ここから一気に寄せられでもしたら、どうするんよ。△86香とか、メチャ怖いやん!
それでも平気の平左。少し前まで中学生だった少年とは、思えない図太さではないか。
そして最後に羽生は、すばらしい寄せを披露する。
図は、中村が、△56馬と寄ったところ。
中村、羽生ともに秘術をつくした熱戦となり、形勢は超難解。
先手は手番をもらった、この一瞬でラッシュをかけたいが、相手は「受ける青春」中村修のこと。
そう簡単にはいかないようで、たとえば、▲42とは、自然な△同銀には、▲同成銀、△同金に▲51飛が、馬取りと▲31角の両ねらいでうまいが、ここは△同金で取るのがミソ。
▲同成銀、△同銀に、▲52飛の馬銀両取りには、今度は△53銀打で受け切り。
また、▲54角、△31金に▲71飛とせまる手も見えるが、これには△86香とされて、受けがなくなる。
そこで▲31飛成とボロっと金を取って、△同玉なら頭金だが、△13玉とかわされて詰みはない。
このなんなり手がありそうなところで、スルリと抜け出すのが、「不思議流」「受ける青春」中村修の真骨頂。
大名人中原誠をはじめ、幾多の棋士がこのイリュージョンに惑わされたものだが、羽生はしっかりと見えていたのだ。
▲43と、と捨てるのが絶妙手。
といっても、攻めのカナメ駒である、▲53のと金をタダで捨てるなど、まったく意味がわからないが、△同金に▲41成銀と入るのが、継続の好手。
金を上ずらせて、その裏にすりこむ成銀。
といわれても、子供のころの私はまったく意味がわからなかった。
金や成駒のような手が一段目に行くのは、利きが弱くなって一番使えないはずなのだが、なんとこれで後手はすでに防戦が困難なのだ。
先手は次に、▲52飛の王手馬取りがあり、△32金と埋めても、やはり▲52飛で馬取りと▲31角があって後手がまいる。
また後手が、どこかで△86香と攻めてきても、▲同金、△同銀に▲31角が王手銀取りで抜けてしまう。
おそろしいことに、どうやっても後手が勝てない形になっているのだ。
「負けなし」と言われる▲53のと金を捨て、成銀をわざわざ働かない位置に移動するのが絶妙とは……。
中村は△42金打と抵抗するが▲51飛と打って、以下、中村の猛攻を冷静に受け止めて勝ち。
▲43と、からの寄せは当時絶賛され、またタイトルホルダー相手に競り合いを制したことからも、
「羽生少年、おそるべし」
という評価は、ここに確固たるものとなったのであった。
(羽生の大ポカ編に続く)
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