フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ

2018年09月22日 | ちょっとまじめな話
 「オレは今でもフリッツ・ラングの『M』に納得いってないからね!」

 友人カシダ君に、そう声を荒げたのは不肖この私である。

 ことの発端は、近所のおでん屋で一杯やっていたときのこと。辛子たっぷりのちくわをほおばりながら、友がこんなことを言ったのだ。

 「でも、シャロン君の中に《リンチ願望》があるなんて、意外やったなあ」

 私が誰かを「私刑」したがっている。

 などというと、ずいぶんと物騒な話だが、カシダ君はこないだここで書いた「大坂なおみ選手とブーイング」の記事(→こちら)を読んで、「へえ」となったのだそうな。

 「正義を安易に楽しむこと」。

 それはそのまま無意識の虐待や差別にもつながる危険な感情だから、注意した方がいい。

 といった内容的なのだが、友がひっかかったのは、注意した方がいいというフレーズの前に

 「実に残念なことだが」

 そうカッコつきで、つけ加えてあったこと。

 「あんな前置きつけるいうことは、キミの中にも《悪》をやっつけて快感を得たいっちゅう欲望があるってことやもんなあ。それが意外やったなあ、思うて。まあ、冗談か皮肉かも知らんけどね」

 カシダ君にかぎらず、基本的に私はおとなしい人間に見えるらしい。

 たしかに、あんまり他人に対して腹を立てたり怒ったりしたことはないかもしれない。だれかに暴力をふるったこともないし、権力などを利用した各種ハラスメントとも無縁だ。
 
 実際、友人の女性などには、

 「セクハラとかパワハラをしないのが、唯一のとりえだよね」

 なんてことをいわれるほど安パイであり、それは別に私が聖人君主というわけではなく、

 「生きるエネルギーにとぼしいボンクラ男子」

 だからに他ならないが、それで世界が平和なら、まあそんなに悪いことでもないのかもしれない。

 そんなスーパー昼行燈なので、「正義の暴力願望」なんてのもなく、それゆえ「気をつけたほうがいい」と、ある意味他人事としてクールに語っているのかと思っていたところの「不本意ながら」発言。

 これが友には不思議だったのだと。寝ながら起きてるようなキミに、そんな激しい感情があるとはねえ、と。

 これに対して、冒頭の私の答えになるわけだ。

 そんなもん、全然あるよ。あるある。ないわけがない。

 そりゃまあ、『デスノート』のライト君みたいに

 「悪を滅ぼし理想の世界を作る」

 みたいな、中2病的ノリは大げさにしても、好きでない芸能人やスポーツ選手なんかがやらかしたり、たたかれたりしてるのを見ると、

 「フン、調子にのるからや」

 くらいなことは思うもの。
 
 それをわざわざ出かけて石を投げたり、ネットに書いたりはしないけど、熱量が低いから伝わらなかったり無害だったりするだけで、そういう「醜い願望」はふつうに持ってる。

 つまるところ、たぶんここをお読みの皆様方と同じくらいには「正義の怒り」を感じることもあるわけで、その意味では「気をつけろ」というのは、多分に自戒がこもっているのだ。

 全然、他人ごとなんかじゃない。

 私がそのあたりのことに自覚的なのには理由があって、それがフリッツ・ラング監督の『M』という古典的ドイツ映画。

 これによって自分が、

 「《正義の怒り》と理性を天秤にかけたとき、前者を取る可能性がゼロではない人間」

 だということを否定するのが、むずかしいと感じてしまったからだ。


 (続く→こちら



コメント (2)
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