前回(→こちら)の続き。
1997年フレンチ・オープンで、ノーシードからあっという間に頂点に立ってしまったブラジルのグスタボ・クエルテン。愛称は「グーガ」。
この全仏優勝に、テニス界は沸き立った。降ってわいたようなニューヒーローは、このとき世界ランキングはまだ66位。
優勝どころか、4回戦まで残れれば大活躍といったレベルの選手だったのだ。ロンドンオリンピックに出場したころの日本の伊藤竜馬がこれくらいのランキングだったといえば、その衝撃度がわかろうというもの。
この大会、グーガは故国のイメージカラー黄色を基調にした、明るいウェアを着ていたが、まさかここまで勝つのは想定外だったのか、着がえを用意していなかった。
それどころか、用意していたラケットは、なんとたったの2本。もし試合中にその2本が壊れるか、ガットが切れてしまっただけでも、途中棄権(!)になるという状況での快挙だった。周囲どころか、本人すら青天の霹靂の栄冠だったわけだ。
もちろん大会終了どころか、途中からメーカーが大あわてでウェアとラケットを送ったらしいが、これこそうれしい悲鳴というやつであったろう。
大騒ぎになったのはスポンサーだけではない、ブラジルといえば、サッカーは有名すぎるほど有名だが、テニスに関しては長らく不毛の地であった。
そこに、まさかのチャンピオンの誕生。それも、ジュニア時代から将来を嘱望されていたわけでもない若者がである。
クエルテンが契約していたメーカーのウェアはバカ売れし、ラケットはまたたく間に在庫がはけ、ブラジルににわかにテニスブームが訪れることとなった。まさに宝くじが当たったような騒ぎだった。
このいきなりの優勝で、クエルテンは一躍トップ選手の仲間入りをした。
当初はまぐれというか、たまたま調子がよかっただけでは、という危惧もあったが、グーガは多くのスペシャリスト同様、活躍の中心こそクレーコートだったものの、他の大会でもまずまずの成績を残し、上位に定着した。
その後しばらくなりをひそめており、ジョン・マッケンローが、1997年のUSオープンで優勝したパトリック・ラフターを皮肉ったような、
「グランドスラムに、一回だけは優勝できたヤツ」
に成り下がったのかと思われたが(ちなみにラフターは98年も優勝し2連覇した)、2000年のフレンチ・オープンでは97年に続いてのカフェルニコフ、のちにこの赤土で優勝することとなるフアン・カルロス・フェレーロ、決勝では伸び盛りの若手であるマグヌス・ノーマンを破って2度目の優勝。
また、シーズン最終戦のマスターズ(室内カーペット)でも優勝し、クレー以外でも結果を出せることも証明した。
続く2001年フレンチも、やはりカフェルニコフとフェレーロを沈めて、決勝ではクレー巧者のアレックス・コレチャをやぶっての、2年連続3度目の優勝。この間、世界ランキングで1位にも輝いている。
こうして、彗星のごとくあらわれて頂点に立ったグーガは、そのすばらしく魅せるテニスとともに、人としても愛された選手だった。
ひょろっと細長い手足に、派手なウェア、ラスタマンのようなくせっ毛。というと、一見クセのありそうな男のようであるが、その顔は笑うとまるで子供みたいに邪気がなく、誰もが好きにならずにいられない雰囲気を持った選手だった。
当時のテニス界でナイスガイといえば、オーストラリアのパトリック・ラフターといわれていたが、それと並ぶのがグーガという意見をよく聞いた。
そんな彼の茶目っ気が最も発揮されたのは、そのホームグラウンドである、ローラン・ギャロスのセンターコート。
2001年にスペインのアレックス・コレチャを破って優勝したときに、赤い土のコートに、ラケットで大きなハートマークを描いた。
そのキュートな行動に、ファンは惜しみない拍手を送った。
クレーコートにハート! これ以上、彼のことを表す絵はあるだろうか。彼はローラン・ギャロスを愛し、またラファエル・ナダルがあらわれるまでは、この赤土にもっとも愛された選手でもあった。
新陳代謝の激しいスポーツの世界では、「彗星のごとく」あらわれた選手の多くが、それ一回こっきりか、もしくは急激におとずれた富と名声をもてあまし、あたら才能を浪費してしまったりしてしまうことはよくある。
だが、グーガに限ってはそんなことはなかった。ぽっと出の選手であったが、そこで終わらない才能と、その後の研鑽と、おそらくはささやかな、したたかさもあったのだろう。
それらの要素にくわえて、彼がただの一発屋で終わらなかったのにはもうひとつ、どこかに「人柄」という面があったのではないか。
誰からも愛されるあの笑顔とキャラクターこそが、彼の天衣無縫なテニスを存分に伸ばしていけることを助けたのではないか。勝負の世界では、ややもすると足を引っぱりかねない「いいヤツ」だったことが、グーガの場合は大きな武器だった。それもふくめての才能だったのでは。
サンバテニスを愛したファンの一人としては、そう強く思うのである。
※グーガのサンバテニスの映像は→こちら
1997年フレンチ・オープンで、ノーシードからあっという間に頂点に立ってしまったブラジルのグスタボ・クエルテン。愛称は「グーガ」。
この全仏優勝に、テニス界は沸き立った。降ってわいたようなニューヒーローは、このとき世界ランキングはまだ66位。
優勝どころか、4回戦まで残れれば大活躍といったレベルの選手だったのだ。ロンドンオリンピックに出場したころの日本の伊藤竜馬がこれくらいのランキングだったといえば、その衝撃度がわかろうというもの。
この大会、グーガは故国のイメージカラー黄色を基調にした、明るいウェアを着ていたが、まさかここまで勝つのは想定外だったのか、着がえを用意していなかった。
それどころか、用意していたラケットは、なんとたったの2本。もし試合中にその2本が壊れるか、ガットが切れてしまっただけでも、途中棄権(!)になるという状況での快挙だった。周囲どころか、本人すら青天の霹靂の栄冠だったわけだ。
もちろん大会終了どころか、途中からメーカーが大あわてでウェアとラケットを送ったらしいが、これこそうれしい悲鳴というやつであったろう。
大騒ぎになったのはスポンサーだけではない、ブラジルといえば、サッカーは有名すぎるほど有名だが、テニスに関しては長らく不毛の地であった。
そこに、まさかのチャンピオンの誕生。それも、ジュニア時代から将来を嘱望されていたわけでもない若者がである。
クエルテンが契約していたメーカーのウェアはバカ売れし、ラケットはまたたく間に在庫がはけ、ブラジルににわかにテニスブームが訪れることとなった。まさに宝くじが当たったような騒ぎだった。
このいきなりの優勝で、クエルテンは一躍トップ選手の仲間入りをした。
当初はまぐれというか、たまたま調子がよかっただけでは、という危惧もあったが、グーガは多くのスペシャリスト同様、活躍の中心こそクレーコートだったものの、他の大会でもまずまずの成績を残し、上位に定着した。
その後しばらくなりをひそめており、ジョン・マッケンローが、1997年のUSオープンで優勝したパトリック・ラフターを皮肉ったような、
「グランドスラムに、一回だけは優勝できたヤツ」
に成り下がったのかと思われたが(ちなみにラフターは98年も優勝し2連覇した)、2000年のフレンチ・オープンでは97年に続いてのカフェルニコフ、のちにこの赤土で優勝することとなるフアン・カルロス・フェレーロ、決勝では伸び盛りの若手であるマグヌス・ノーマンを破って2度目の優勝。
また、シーズン最終戦のマスターズ(室内カーペット)でも優勝し、クレー以外でも結果を出せることも証明した。
続く2001年フレンチも、やはりカフェルニコフとフェレーロを沈めて、決勝ではクレー巧者のアレックス・コレチャをやぶっての、2年連続3度目の優勝。この間、世界ランキングで1位にも輝いている。
こうして、彗星のごとくあらわれて頂点に立ったグーガは、そのすばらしく魅せるテニスとともに、人としても愛された選手だった。
ひょろっと細長い手足に、派手なウェア、ラスタマンのようなくせっ毛。というと、一見クセのありそうな男のようであるが、その顔は笑うとまるで子供みたいに邪気がなく、誰もが好きにならずにいられない雰囲気を持った選手だった。
当時のテニス界でナイスガイといえば、オーストラリアのパトリック・ラフターといわれていたが、それと並ぶのがグーガという意見をよく聞いた。
そんな彼の茶目っ気が最も発揮されたのは、そのホームグラウンドである、ローラン・ギャロスのセンターコート。
2001年にスペインのアレックス・コレチャを破って優勝したときに、赤い土のコートに、ラケットで大きなハートマークを描いた。
そのキュートな行動に、ファンは惜しみない拍手を送った。
クレーコートにハート! これ以上、彼のことを表す絵はあるだろうか。彼はローラン・ギャロスを愛し、またラファエル・ナダルがあらわれるまでは、この赤土にもっとも愛された選手でもあった。
新陳代謝の激しいスポーツの世界では、「彗星のごとく」あらわれた選手の多くが、それ一回こっきりか、もしくは急激におとずれた富と名声をもてあまし、あたら才能を浪費してしまったりしてしまうことはよくある。
だが、グーガに限ってはそんなことはなかった。ぽっと出の選手であったが、そこで終わらない才能と、その後の研鑽と、おそらくはささやかな、したたかさもあったのだろう。
それらの要素にくわえて、彼がただの一発屋で終わらなかったのにはもうひとつ、どこかに「人柄」という面があったのではないか。
誰からも愛されるあの笑顔とキャラクターこそが、彼の天衣無縫なテニスを存分に伸ばしていけることを助けたのではないか。勝負の世界では、ややもすると足を引っぱりかねない「いいヤツ」だったことが、グーガの場合は大きな武器だった。それもふくめての才能だったのでは。
サンバテニスを愛したファンの一人としては、そう強く思うのである。
※グーガのサンバテニスの映像は→こちら