ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市三見は三見市から三見駅

2019年04月12日 | 山口県萩市

                  
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号) 
         三見(さんみ)は萩市の西端に位置し、北は日本海に臨み三方を山に囲まれて、集落は三見
        川とその支流域に散在する。1604(慶長9)年に萩城下ができると、萩から赤間関(下関)
        へ通ずる赤間関街道北浦筋が設けられ、三見は宿駅となる。(歩行約5.3㎞)

           
         JR厚狭駅(8:34)から美祢線を利用して、JR長門市駅で東萩駅行きのバスに乗り換え、
        三見市バス停(10:45)で下車する。

           
         地名の由来は、平安時代に三位中将平重衡(平清盛の五男)が、安徳天皇を守護
して当地
        に上陸したという伝承に由来し、三位が三見に転訛したと云われている。
  
        
         四差路を右折して下って行く道が、三見浦から木間に通じる脇道であった。

           
         観音峠の下り坂に建立されている観音堂は、平家落ち武者の守護仏とされる聖観音が祀
        られ、今ではお産の観音様として愛されている。

           
         三見市は東西300mほどの一本道の両側に民家が並ぶ小さな集落であり、その後の道
        路建設による影響もなく、全く手付かずで旧街道が保持されている。(東端の観音堂より)

           
         1665(寛文5)年に人馬継立の宿駅として取り立てられ、以後は交通の要衝となり、新
        市「三見市」と呼ばれるようになる。

           
         意匠が見られる平入り民家。

           
         車も通らないので自由に自転車遊びもできる。

           
         平安期の807(大同2)年に創建された仁王堂は解体され、1958(昭和33)年に三見仁
        王会館(地区会館)が建設されたが、仁王像は会館内の両脇に安置された。
 
                     
         仁王像は、室町期の1491(延徳3)年に守護大名の大内政弘父子が寄進したと伝える。

           
         1734(享保19)年に萩藩6代藩主・毛利宗広が疱瘡を患い、母の永昌院が参詣し疱瘡
        治癒を祈願する。全快した礼として御堂を瓦葺きとし、毛利家の家紋を許し寄進したとさ
        れる。(鬼瓦に家紋)

           
         現仁王会館の敷地は高札場、春定場、仁王堂、石体地蔵の建立跡で、藩の御触書、代官
        の告知を掲げ、宿町の中心地を形成していた。

           
         三見郵便局は、1875(明治8)年に旧宿駅の中央にあった阿武(あんの)平十郎宅で開業す
        る。その証として開業当時の書状集箱が置かれている。

           
         浄土真宗・色雲寺(しきうんじ)は、三見市の中心に位置し、藩主の領内巡行のとき、本陣
        として休憩場所になった。

           
         左手には目代所(もくだいしょ)があった所で、人や荷物を運ぶ馬(伝馬)31疋が常備され、
        目代(駅長)が旅人に伝馬を手配した。(公会堂より西の街並み)

           
         幕末から明治期の元薬問屋・三島屋さん。

           
         直線的な三見市の町並み。

           
         道沿いに47軒が家並みを連ねていたとされ、家屋の前半分を店や居住部分に充て、後
        半分を馬小屋などに使用したとされる。

           
         宿駅を離れると街道は三見川上流域に沿って谷筋を進む。

           
         谷間の水田縁、山縁を通る緩やかな上り道に一体の石仏。

           
         電柱の先左側に一辺約40㎝の四角い石があるが、三見市と床並との境石とされ、昔は
        この場所で地神の祭事が行われていたという。(傍に注連縄などあり)

           
         三見川上流域で三見市集落は姿を消す。

           
         境石より約600mで市道三見市鎖峠線(旧国道)に合わす。

           
         市道合流手前の左手に「めがね橋」と呼ばれる石橋(三見橋)がある。以前は土橋であっ
        たが、1914(大正3)年に架け替えられた。(国有文)

           
         めがね橋傍に「床波(とこなみ)一里塚跡」の碑がある。(ここで三見市まで引き返す)

           
         1581(天正9)年に創建された善照寺(真宗)は脇本陣とされた。1864(元治元)年に建
        てられた本堂と、山門前には大きな六足石灯籠が置かれている。

           
         三見吉弘の道路沿いに大きく茂ったバクチノキがある。樹木の傍に通称「森様」と呼ば
        れる祠があり、銘には「宝暦5年(1755)乙亥6月15日」とあり、バクチノキはその当時
        から存在していたものと思われる。 

           
         バクチノキとしては県内最大の大樹で、木の生長とともに樹皮が剥がれて黄褐色になる。
        これが博打で敗けた人が身ぐるみ剥がされる様と似ていることから名が付いたとされる。

           
         県道三見停車場三見線を横断して三見川に沿う。

               
         地元の人によると、萩市三見出張所の地が三見村役場だったとのこと。

           
         旧三見村・旧山田村の氏神で、1947(昭和22)年に三見の「三」と山田の田」をとっ
        て、三田八幡宮に改称された。

           
         「めがね橋」がデザインされた三見地区漁業集落排水のマンホール蓋。

           
         三見浦。

           
           
         1925(大正14)年開業の三見駅は、線路により駅舎側と海側に人家が二分されている
        ため、跨線橋で双方の出入りが可能となっている。(駅から三見市までは約2.6㎞の距離)


この記事についてブログを書く
« 長門市俵山は湯治場風情を残... | トップ | 萩市三見の飯井・明石は石州... »