ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市の三隅市は赤間関街道筋にあった地 

2019年04月17日 | 山口県長門市

                            
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         三隅市は三方を小高い丘に囲まれ、西流する三隅川中流域に平地が展開し、三隅川沿い
        に赤間関街道北浦筋が東西に走る。(ルート約2.2㎞)

           
         JR長門市駅から防長バス東萩駅行きバス33分、三隅市バス停で下車する。

           
         源頼朝の弟・範頼の首塚と伝えられ「岡の塔様」と呼ばれる五輪塔。鎌倉期の1193
        (建久4)年8月に兄・頼朝に追われて伊豆修善寺で自刃する。家臣の当麻三郎親子が平家追
        討の総大将であった縁を頼って長門国へ落ち、ここを通る時、急に首級が重たくなったの
        で、ここに葬ったと伝えられる。

           
         三隅八幡宮は鎌倉期に宇佐八幡宮より勧請した三隅村・通村の総氏神。昔から農村に伝
        えられてきた「田の神・山の神」の祭祀として、4月と9月に例祭(大祭)が行われる。

           
         南北朝期の1362~1368年頃に社殿が延焼し、再建年代は不詳だが三間社流見世
        棚造りの建物が再建される。

           
         1872(明治5)年にすべての国民に初等教育を受けさせる学校制度が制定される。三隅
        市でもこの地に「市小学校」が創設されたが、1884(明治17)年に三隅三ヶ村の学校が
        できると廃校になる。

           
         市頭に地蔵尊。

           
         宿駅で市として発達したが、のちに隣町の正明市が盛んになる。

           
         街道筋だったことを思わせる町家は少ない。

           
         岡藤家の手前にある古民家。

           
         庄屋だった岡藤家は、1798(寛政10)年毛利斉房夫人が湯本温泉に行く際に、橋が流
        失したため当家を臨時の宿泊場所にしたという。

           
         廚子二階の家が並ぶ。(手前はS家)

           
         右手に三隅八幡宮の灯籠。

           
         旧三隅町の町花だったサツキと、中央に町章がデザインされたマンホール。

           
         この先は昭和・平成期の建物が並ぶ。

           
         市に残る唯一の商店。

           
         三隅市もほぼ直線的な町並みである。

           
         三隅川に架かる琴影橋は、1917(大正6)年に現在の橋が建造されたが、藩政時代は長
        さ32間(約58m)の土橋だったとのこと。

           
         三隅村役場があった地とされる。

           
         12時16分のバスでJR長門市駅に戻る。       
        


長門市三隅の沢江に村田清風旧宅と記念館 

2019年04月17日 | 山口県長門市

                       
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         沢江は三隅の西端にあって、仙崎、深川と境を接しており、旧藩時代には赤間関街道北
        浦筋に沿って戸数約40戸が並ぶ小さな集落であった。幕末から明治にかけて「沢江の針」
        として生産・販売されていたが、家内工業的な手工業製品は近代的な生産技術に押されて
        衰退する。(歩行約5㎞)

           
         長門三隅駅は、1924(大正13)年に美祢線が延伸して、その終着駅として開業する。
        駅から沢江までは約1.8㎞の距離にあり、JR山陰本線が沢江集落を東西に走っている。

           
         県道287号線(長門三隅線)を西進する。

           
         横断歩道の所で平野集落に入る。

           
           
         豊原第4踏切を横断し右折する。

           
         山手に向かって道なりに進む。

           
         浅田地区にある向山の山裾に周布政之助の墓所入口がある。

           
         山頂部に「贈正四位周布政之助之墓」がある。山口市湯田の吉冨家で自刃した周布は、
        近くの吉富家の墓のある地に埋葬されたが、のちに改葬される。

           
         周布政之助は、1823(文政6)年に萩市江向で生まれたが、生後まもなく父が亡くな
        ったため、母の実家である村田家に移り住み、幼少の頃はこの地で過ごす。宅跡には石碑
        
と説明板があるのみである。

           
         浅田川に沿って川下へ向かう。

           
         浅田踏切の先で県道に合わす。

           
         沢江集落には「大谷」と「村田」という姓が多く、姓を区別するため屋号が使われた。

           
         車の駐車場となっている所が礒家で、江戸期には藩主が立ち寄り休憩する会所があった
        とされる。その手前の車庫付近には、宗頭にあった山本家の蔵があり、地域の米が集めら
        れたという。

           
         土塀が街道筋の面影を残す。(M家)

           
         JR山陰本線と県道に挟まれた町並みは約650mと短い。

           
         以前は沢江郵便局舎だった旧村田家。1915(大正4)年11月に開業し、郵便集配、電
        報の配達並びに電話交換業務を除く事務を行った。

           
         門柱のある家は元医院。

           
         沢江で唯一門を構えた屋号・呉服屋の大谷家。

           
         最近は見かけなくなった障子戸が表から見られる。村田家は村田清風宅までが坂である
        ため、屋号が「坂」となったようだ。

           
         線路の反対側に村田清風記念館。

           
         村田清風記念館は幕末の激動する政治情勢の中にあって、藩政改革の中心人物として手
        腕を揮った。村田清風と周布政之助の功績と人柄を、遺品や資料を通して紹介している。

           
         展望台から見る沢江地区。

           
         沢江地区の先に仙崎湾と青海島。

           
         村田清風が19歳まで起居成長した場所で、旧宅を三隅山荘と称していた。

           
         木造平屋建ての主屋は北面に庭を配している。清風40歳の頃、武蔵国で購入したとさ
        れる五葉の松が現存する。

           
         この地に誕生して19歳の時に萩へ移るまでと、晩年、63歳のとき職を辞して三隅に
        帰り、隠居時代を過ごした旧宅(三隅山荘)である。数年後、再度藩主に乞われて出仕する
        が、中風の再発により城内平安古の役宅において73歳の生涯を閉じる。

           
         外観は一般農家と差異はないが、在郷武士の武家住宅としての要素を備えている。式台
        玄関が備えられ、その隣に家人用の脇玄関を設け、式台玄関を入ると控えの間、床を備え
        た奥座敷へと続く。

           
         1843(天保14)年に郷学の尊聖堂を設立し、後進の育成にあたる。

           
         屋号・紺屋の中野家。

           
         旧吉田屋旅館の前には屋根付き井戸。

           
         旧三隅町時代の町花であったツバキと、中央に町章がデザインされたマンホール蓋。

           
           
         沢江川を挟んで左右に旅館があったが、左手の滝口旅館は解体されている。

           
         沢江川左岸を上流へ向かうと山陰本線踏切を横断する。すぐに右折して線路に沿うと村
        田清風墓所入口がある。

           
         階段を上って行くと、村田清風を含めた村田家三代・村田清風、大津唯雪(清風の次男)、
        村田看雨(唯雪の次男)の墓所がある。

           
         墓所から見る仙崎湾。

           
         大歳社は豊漁並びに五穀豊穣の守護神として、1650(慶安3)年に勧請された。

           
         参道左手に福原与右衛門の碑。どのような人物だったのか不明のままとなる。

           
         参道右手には明治の始め頃に戸長を務め、教育費の一部を寄付した山田与三郎頌徳碑。
        篆額は伊藤博文。

           
         街道はJR山陰本線で遮断されている。

           
         線路南側の町並み。

           
         公会堂付近には、かって「お茶屋」という料亭があり、萩藩主が湯本への入湯の際に立
        ち寄り休憩をしたとされる。大正年間に建物は解体された。

           
         沢江郵便局傍の沢江バス停からJR長門市駅に戻る。