ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

上関は風待ち・潮待ち港だった地 (上関町)

2019年01月14日 | 山口県上関・平生・田布施町

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         上関(かみのせき)は室津(熊毛)半島の先端、西海上に
位置し、東北から南西に長い島は長
        島といい、東北部に上盛山がそびえ、島のほとんどが丘陵地である。
         島内には上関、戸津、白井田、四代、蒲井地域があるが、その中心は町役場のある上関
        である。1958(昭和33)年に室津村と合併して上関町となる。(歩行約4㎞)

           
         JR柳井駅前から防長バス上関行き約55分、上関大橋バス停で下車する。

           
         バス停から戻ると右に小高い丘がある。幕末、萩藩は外敵からの防衛のため、要所に砲
        台を築造したが、上関にも砲台が築かれる。
         1866(慶応2)年6月6日に第二次幕長戦争大島口の戦いが始まり、上関海峡に幕府軍
        の富士山丸が攻めてきて、室津白浦を砲撃したが、砲台場から攻撃した記録は残されてい
        ないという。

           
         わずかに残る石垣が砲台跡であったことを伝えている。

           
         住吉神社の勧請年代は不明とされる。御茶屋の鎮守として祀られ、年久しく御茶屋の谷
        間にあったが、1760(宝暦10)年に海岸が埋め立てられて遷座した。

            
         海の神様として海峡を行き交う船を見守り続けてきたが、1969(昭和44)年6月に上
        関大橋が架けられる。

           
           
         焼玉エンジンの構造などを聞かせていただく。

           
         西山鉄工所から眺める海曲がり。

           
         朝鮮通信使上陸の地とされ、朝鮮通信使上陸用のため、萩藩は日常的に使用する雁木の
        上に、木材で仮設の桟橋を設けた。その桟橋から御茶屋まで土を踏ませないように莚(むし
          ろ)
が敷かれたとのこと。
         1596(慶長元)年に文禄の役講和のため朝鮮使節一行が上関に寄港し、1761(宝暦1
          1)
年まで計11回の使節団が寄港する。

           
         鉄工所の先から高台へ向かうと、上関御茶屋正門跡の石垣が残されている。

           
         御茶屋は江戸初期、浦氏の館跡に萩藩の迎賓館として整備された。藩主はもとより参勤
        交代の諸大名、幕府の使者、朝鮮通信使なども宿泊したが、1870(明治3)年に解体され
        た。

           
         1632(寛永9)年に長島の四代に番所が置かれたが、老朽化と上関港の発展に伴い、1
        711(正徳元)年、朝鮮通信使のために建てた仮番所を公儀に願い出て、上関港近くに移転
        する。番所には三田尻の御船手組から番人として6人が勤務した。建物は1996(平成8)
        年、現在地に復元移築されたもので、江戸初期の数少ない行政機関の遺構である。

           
         番所の敷地内に朝鮮通信使来航記念詩碑がある。詩文には9回目の通信使が上関に寄港
        した際、朝鮮側の外交官・申維翰(しんゆはん)が、上関での歓待を喜んだ心情が詠まれてい
        る。

           
         番所は海の主要な港に設けられた関所で、通行人や船舶の取り締まりを行うとともに、
        運上銀(藩に納める税)の徴収事務も行うところであった。

           
           
         阿弥陀寺は朝鮮通信使来航時、対馬藩の僧が宿泊した寺である。

           
         新町廊雁木とされ、天保年間(1830-1844))には茶屋が3軒、遊女が54人いたとされる。

           
         1819(文政2)年に萩藩は撫育方の出先機関である上関越荷会所を設け、海運商人や問
        屋商人などに越荷資金を貸付けて利潤を得る。(現在は保健センター)

           
           
         藩の上関番所や御茶屋などの役人、初代上関村長も務めた安村家。安村家と大谷家(旧
        林家)が並んでいたが大谷家は解体されている。

           
         東川井戸

           
         もとは主要道だったが今は人影もない。

           
         袖壁のある粟屋家。

           
           
         上関を象徴する坂田家(旧小田村家)は、入母屋の屋根の妻部に斜めに張り出した珍しい
        袖壁と、前面の菱形虫籠窓が特徴の旧商家である。

               
            役場前に建っていた粟屋薬局は解体されて駐車場になっていた。
                                   (2008年撮影)

           
         1889(明治22)年の町村制施行により、長島、祝島、八島の3島が上関村となり、現
        在の役場地に村役場が設けられた。

           
         昭和の時代に見られた日除け用テントと百貨店という名称。

           
         今村百貨店前は海岸から小学校への通学路だった。

           
         門構えのある武内家。(山口銀行前)

           
         町道瀬戸殿後線に沿って家が連なる。

                    
                     菱形虫籠窓のある越後屋さん。
 
           
         室町時代に上関城を築いた村上水軍は、城の鎮守として菅原神社を祀った。廃城後に里
        人が参詣するには不便なため、1750(寛延3)年に移転したとされる。

           
         上関城を築いた村上義顕の末裔で、朝鮮通信使の水先案内役として、1764(明和元)
        に上関を訪れた萩藩御船手組頭・村上廣武が寄進した灯籠とされる。

           
         旧上関小学校脇に竈(かまど)八幡宮への参道がある。

           
         1873(明治6)年に上関第五小学として開校した上関小学校は、2006(平成18)年、
        室津小学校と統合して新小学校が完成したため解体作業中であった。

           
         旧上関小学校の敷地は、1870(明治3)年に廃仏毀釈で廃寺となった明関(みょうかん)
        があったところである。明関寺は朝鮮通信使来航の際、対馬藩主・宗氏の接待・宿泊所と
        して使用された。

           
         参道から上関海峡と町並み。

           
         中二階の造りが特徴の竈八幡宮本殿は、平安期の857(天安元)年に香椎宮の分霊を勧請
        して創建される。

           
         竈八幡宮から御汗観音堂へ通じる道に出る。

           
         人は死後に、六道を輪廻・転生するといわれ、衆生の苦しみを救う地蔵菩薩とされる。
        地獄道の檀陀(だんだ)、餓鬼道の宝珠 、畜生道の宝印、修羅道の持地(じじ)、人間道の除蓋
        障(じょがいしょう)、天道
の日光とされる六地蔵菩薩。

           
         大川井戸。

           
         港町は常として平地が少なく、2階建ての建物が目立つ。

           
         渡船場前バス停から11時15分の町営バスで白井田へ向かう。