ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

室津は半島の先端にあって史跡の四階楼 (上関町)

2019年01月23日 | 山口県上関・平生・田布施町

                     
         の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         室津(むろつ)は室津(熊毛)半島の先端部にあり、皇座山の西側に広がる町は、海岸線まで
        山麓が迫っている。1879(明治12)年に室津村と室津浦が合併して室津村となるが、1
        957(昭和32)年の昭和の合併で、上関村と合併して上関町室津になる。(歩行約3㎞)
  
        
         柳井駅前から防長バス上関行き約50分、室津バス停前で下車する。

           
         肥後屋の跡地は、村役場、上関町公民館と変遷する。

           
         肥後屋は室津の本陣で、祖先は熊本に住んでいたが、室津に移り住むと吉崎姓を名乗る。
        酒の販売などを営み、庄屋など地域の世話役も務める。幕末には高杉晋作、桂小五郎、坂
        本龍馬など多くの志士たちが立ち寄り、京都での政変で京を追われて長州に下った七郷の
        うち、5卿(3卿説もあり)も宿泊する。

           
         四階楼は、1879(明治12)年に維新の志士・小方謙九郎が建てたもので、当初は住宅
        兼店舗、汽船宿として利用されたが、その後は所有者も変わり、1991(平成3)年まで旅
        館として利用された。(国重文)

           
         木造4階建てだが高さは3階建てほどで、外観は白壁に縦長の窓、壁隅の装飾が洋風ら
        しさを見せる。

           
         内部に入ると階高は約2.2mで、1階の壁には「菊水紋」の鏝絵。

           
         3階の表座敷には唐獅子牡丹鏝絵。

           
         3階の天井飾りは椿の鏝絵。

           
         意匠された茶室の間。

           
         階段から見るステンドグラス。

           
         4階の窓はすべてステンドグラスで、フランスから輸入されたと伝えられ、宴会の場と
        して利用された。

           
         四季折々に違った色を見せるようで、開館は10時だが事前に連絡いただければお見せ
        しますとのこと。

           
         18畳の天井中央には鳳凰の鏝絵。

           
         常満寺(浄土真宗)を開いたのは平氏の武将佐原十郎盛光(1293年没)といわれる。火
        災に遭い、1739(元文4)年にこの地へ移転した。

           
         上関海峡を通行する帆船の目印となった大銀杏。

           
         裏通りが昔の道で、通りに面して商店などが軒を連ねていたが、今では往時の姿を見る
        ことはできない。

           
         右の空地に松前家があった。

           
         塀に囲まれた松前家は解体されて駐車場となっている。(2008年1月撮影)

           
         上関海峡、四階楼と松前家が並び見応えのある風景だった。

           
         通りに残る唯一の旧家・山本邸。

           
         空地と空家が目立つ。

           
         山本家の所で道は鍵曲がり。

           
         賀茂神社は、南北朝の1352(文和元)年に京都の賀茂神社から勧請したと伝わる。

           
         この地にあった吉田家は、広島県の呉市蒲刈町にある松涛園へ移築された。

           
         煙突と屋根に湯気抜きがあるのは、銭湯だった「いなり湯」さん。

           
         銭湯の向かい側には共同井戸だった六角井戸。

           
         突き当りは海から西方寺を結ぶ路地である。

           
         背後に山、前には海が迫り、狭い空間の中に店舗を兼ねた総2階家が並ぶ。

           
         ここが海岸線だったとのことを示す船繋ぎ石。

           
         船繋ぎ石から道路を挟んで今の海岸線がある。

           
         西町通りに遊郭があったとされるが、今はその面影を見ることができない。

           
         西方寺へ向かうと格子のある家が続く。

           
         その先の左手に旧長命寺の石段。

           
         旧長命寺跡から室津の町並みと上関海峡。

           
         慶長年間(1596-1614)に建立された西方寺。

           
         1864(元治元)年幕府軍の攻撃から上関海峡を守るため義勇隊が駐屯する。翌年には代
        わって鴻城軍が駐屯し、この時に付けた刀傷が残る。

           
         寺前を右に上がって行くと、辻の出会いにお地蔵さん。

           
         辻の左手を進むと県道に合わす。

           
         左手の海岸線に白浜集落。

           
         墓所に中に鳥居。

           
         左側に小方家の先祖を祀った合奠(ごうでん)塔、中央は小方市右衛門の墓である。右側に
        は1858(安政5)年に市右衛門が吉田松陰を訪ねた際、松陰が木刀に詩を揮ごうしたとさ
        れる詩碑がある。

          
         合奠塔裏に小方謙九郎・艶子夫妻の墓。

           
         墓の入口に小方謙九郎(弘徳)の活動を称えた碑がある。幕末期に奇兵隊に入隊し、馬関
        攘夷戦に参戦、四境の役では大島口の戦いで活躍する。維新後は室津に帰り、回漕店や木
        賃宿を営み、1913(大正2)年に79歳で没すとある

                  
         小方謙九郎の墓近くに楢崎剛十郎の碑がある。第二奇兵隊書記兼参謀として活躍中、大
        島口開戦前の1866(慶応2)年4月4日に、第二奇兵隊の倉敷代官所襲撃を止めようとし
        て斬殺される。(奥の碑文は山縣有朋)


        
         室津小学校があった地は「鳩子の湯」として利用されている。

        
         室津小学校は、1874(明治7)年に常満寺を借りて、「第五大区室津小学」として開校
        する。
1877(明治10)年に現在地へ新築移転し、柳浦小学、室津尋常高等小学校などに
        校名を変更する。2006(平成18)年に上関小学校との統合で132年の歴史を閉じる。

        
         1853(嘉永6)年2月吉田松陰は江戸へ行く途中、日和山の砲台場を見学して江戸へ向
        かう。
その後、ペリー来航や長崎にロシア船が入港したのを知り、密航のため長崎に向か
        うが、
その途次の10月15日に室津に泊して望郷惜別の詩を詠む。
        しかし、長崎に着いた2日前にロシア船は出航しており、目的は達せられず引き返した。
        その後再び、アメリカ船で海外密航を企てたが失敗に終わる。

            嘉永癸丑十月十五日
            舟を発し家室を過ぎ室津に至りて泊す
            詩あり云はく
            帰郷夢絶えて涕洗潜々
            舟子喚び醒す是上関と
            蓬窓怪しむなかれ起き来ること晩きを
            国を去りて看るに忍びんや故国

        
         鳩子の湯前にバス停があるが、道の駅上関海峡までは近距離なので、室津バス停から柳
        井へ引き返す。            


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