ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

井関(阿知須)の史跡を巡る (山口市)

2024年06月10日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         井関は土路石川、井関川流域に位置し、東は山口湾に面する。(歩行約7.2㎞)

        
         サンパークあじすバス停からコミュニテイバス(タクシー)約3分、井関バス停で下車す
        る。(100円均一運賃)

        
        
         バス停から山手に向かうと蓮光寺(真宗)がある。井関・野口・杖川の3集落は、この地
        域を玉川と呼んでお互い連帯感を深めていた。
         ここには宇部市厚南区にある蓮光寺の檀家が約70戸あるという。この支坊は井関説教
        所であったが、1974(昭和49)年に庫裏を建設し、以後は蓮光寺支坊というようになっ
        たという。

        
         バス停に戻って井関小学校方向へ進む。

        
         16世紀の中頃、この丘陵地に堀を巡らした領家(りょうけ)と呼ばれる城館があったとさ
        れる。この一帯を治めていた有力権者の屋敷跡とされ、軍事的あるいは政治的な機能を有
        する遺構の一部とされる。現在地はその南の中央にあたるところで、東西に走る堀の北に
        並行して塀と柵、矢倉門が設けられていたという。
         現在は地下遺構とされて説明板のみとなっている。碑は阿知須中区圃場整備記念碑。

        
         左手に井関小学校を見ながら、県道213号線(きらら浜沖の原線)を横断して旦地区に
        入る。

        
         途中の路傍にある石造地蔵尊には「三界萬霊」とあるが、この世に存在する一切の霊(萬
        霊)を多くの人に供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。三界とは
        生命あるものが住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。

        
        
         往古は山王社と号していたが、1871(明治4)年に日吉神社と改めた。風土注進案には
        縁起についての記載はないが、石鳥居の刻文に「正徳六丙甲(1716)」とあり、それ以前に
        存在していたと思われる。一説によると、万年池溜池の鎮守社として祀られていたともい
        われている。
         1906(明治39)年の小社統合を免れ、1912(明治45)年9月に北方八幡宮へ統合さ
        れた浜の二宮神社の社殿を買い求めて、これを移建したという。

        
         境内には「雨乞紀念碑」と「大旱記念碑」が建立されている。1897(明治30)年8月
        6日に建立された雨乞碑によると、明治に入ってから30年に至るだけでも、明治6年、
        11年、14年、16年、25年、30年の6度にわたって雨乞祈願がなされた。
         近年では1966(昭和41)年夏に行われたが、特に1939(昭和14)年はひどく、この
        時に行われた雨乞祈願については、大旱記念碑裏面に記述されている。この年は未曽有の
        大干ばつで、各地の溜池貯水量は充分ならずとある。

        
         増光寺(浄土宗)は旦区公民館の敷地にあったとされる。寺社由来によると、当時、旦村
        には80軒余りの人家があったが、寺はなく先祖の供養にも不自由していた。その頃に嘉
        川村の浄土宗抱えの光昭坊が無住になっていたので、 1737(元文2)年に藩府よりその
        古号・古跡を移すことが認可されたとある。 

        
         1940年代には尼僧が居て、村の農繁期には地域の幼児たちを預かるなど地域住民に
        人望があったという。亡き後は無人となり、1967(昭和42)年廃寺となる。本尊の地蔵
        菩薩は敷地隅に建てられたお堂に祀られ、如来像2軀と33観音は阿知須合同納骨堂へ移
        された。お堂は白松新四国八十八ヶ所15札所とされている。

        
         徳田譲甫翁(1855-1931)は現宇部市西岐波白土の土屋家に生まれ、1870(明治3)年徳
        田小三郎の長女ユキと養子縁組をする。小三郎の長男・文作が生まれ、まもなく小三郎が
        死去したため、家督を相続して文作の親代わりとして養育する。
         村会議員・村長、県会議員、衆議院議員となったが、村の米作りの要であった水不足解
        消のため、江畑池堤防再建のため国や県に奔走する。1931(昭和6)年県営で溜池工事が
        完成するのを見届けて他界する。(徳田邸内に銅像)

        
         左手に丸塚山を見ながら市街地を目指す。飛石地区に石風呂跡があるというが、民家の
        庭とのことで残念する。

        
         飛石公民館敷地内に水を司る水神の「龍神社」祀られている。当初は旧阿知須幼稚園の
        敷地内にあったが、1980(昭和55)年に現在地へ遷座したという。建立時期は不明だそ
        うだが、江戸期に干潟が開作され、18世紀半ば以降に祀られたと思われる。
         鳥居の額束は「飛石龍神社」、柱の刻文は「寛政四子年(1792)九月一六日」、石灯籠に
        は文化4年(1807)とある。

        
         さらに県道を東進して信号機で横断する。

        
        
         丸塚第5号古墳は洪積段丘の端に位置し、南北を主軸にして南側に開口部がある。複室
        の横穴式石室を内部にもつ円墳で、6世紀後半に築造されたものだそうだが、周辺の開墾
        と永年の侵食などにより、石室が露出した古墳であったという。

        
        
         5号古墳の道を進むと工場の先に池が見えてくる。1569(永禄12)年に毛利軍は九州
        に出陣して大友軍と激しい戦いを交えていた。この時、大友氏は毛利軍の背後を衝くため、
        大内輝弘を周防国の秋穂浦から阿知須浦に上陸させた。
         山口に攻め入るために光明寺の住職と5人の村人を無理やりに道案内させた。大内軍壊
        滅後、毛利氏は大内軍に協力したということで6人を首谷ヶ浴(くびたにがえき)で殺害する。
         それ以降、池で自殺する者が相次いだため、1924(大正13)年に近隣の僧と住民によ
        って供養祭が行われ碑が建てられた。その後、自殺する者がいなくなったという。(説明板
        より)

        
         さらに北上すると右手に丸塚2号古墳が見えてくる。 

        
         丸塚2号古墳はミカン園の中にあり、5号古墳と同様に南に開口した複室の横穴式石室
        を内部主体とする古墳である。墳丘は周辺の開墾や耕作によって一部が削り取られている
        が、円墳であったと考えられている。

        
         信号機まで引き返し、船渡児童公園の道を南下する。

        
         白壁の居蔵造を象徴するなまこ壁の格子柄と、旧阿知須町の町木であった金木犀がデザ
        インされたマンホール蓋。

        
         井関川から見た飛石の樋門で「ごろうえび」と呼ばれるが、湿地帯の排水を改善し、稲
        作向上に貢献した人物の名をとったという説もあるが不詳とのこと。 

        
         井関川は旧阿知須町大坪に発し、東流して山口湾に注ぐ2級河川で、流長は9㎞とされ
        る。

        
         藩に納める年貢米を、この橋を渡って橋の袂で収納し、満潮時に船へ積み込み、上方に
        海上輸送する拠点であった。通称「御米(ごまい)橋」と呼ばれた。

        
         中州に祀られている地蔵尊。

         
         「白地に赤と青のライン」の列車は、1987(昭和62)年に国鉄が民営化された後から、
        30年間にわたり運行されていた。
         2022(令和4)年7月より復活運行されているが、運行期間は「当分の間」とされてい
        る。