小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

号外――ノーベル物理学賞3人受賞。が、素直に喜べないこともある。

2014-10-08 08:19:12 | Weblog
 異例のノーベル物理学賞受賞だったのかもしれない。
 昨夜各局のテレビニュース番組報道中に飛び込んできたのが、3人の日本人科学者が同じテーマでノーベル物理学賞を受賞したというビッグニュースだった。これでノーベル賞を受賞した日本人は合計で22人になるという。この快挙に、私も読者の皆さんと喜びを分かち合いたいという気持ちに変わりはない。
 が、多少複雑な思いもないではない。
 受賞した3人、赤崎勇(85、名城大学教授)、天野浩(54、名古屋大学教授)、中村修二(60、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)の各氏のなかで、一般的には最も著名だったのは中村氏である。
 光の三原色である赤・緑・青のうち、高輝度の青色だけが実用化されていなかった。色の三原色は重なると黒になる(プリンターのカラー写真用インクも原則的には赤・青・黄の三色)。これに対して光の三原色は重なると白になる。その程度の知識は小学生か中学生のころに学んでいるはずだ。
 授賞理由は「高輝度で省エネルギーの白色光源を可能にした効率的な青色LEDの開発」とされているようだ。LEDは省エネで長寿命という特徴があり、1960年代には赤と緑のLEDは実用化されていた。が、実用化に耐えられる青色LEDは開発が困難で、世界の科学者や技術者が研究に取り組んでいた。そうした激しい競争を勝ち抜いたのが日本の3人ということで、喜びはあるのだが、素直に喜べないものもある。もちろん3人の功績にケチをつけるつもりはないのだが、この報を聞いて釈然としない科学者・研究者も少なくないのではないかと思うからである。
 ノーベル物理学賞は原則として新発見、先駆的研究による予測などに成功した人物が対象になるとされている。過去の受賞歴を見ても、大半がそうした分野の功績が認められての受賞である。日本人で最初にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏も、未発見だった中間子の存在を理論的に予測、その後イギリスのセシル・パウエル氏が中間子を発見したことにより実証されたとして二人とも受賞している。
 発明や開発、とくに実用化が受賞対象になった例はきわめて少なく、たとえば第2の産業革命を実現したとされるエレクトロニクスの分野でも、受賞者は「三本足の魔術師」と言われたトランジェスタを発明したウィリアム・ショックレー氏ら、集積回路(IC)を発明したジャック・キルビー氏ら等数例にとどまっている。が、トランジェスタを世界に先駆けて実用化したソニーの研究者たち(井深大氏がその中心)や、集積回路のアイデアを最初に考え付いたシャープの研究者たち(名前不明)、あるいは同様のアイデアをインテルに持ち込んだ日本のベンチャー企業・ビジコンの嶋正利氏らは、選考対象として名前すら上ったことはない。
 私は相当前、なぜ日本人からノーベル賞受賞者が出ないのかと嘆かれていた時代に、何かの本だか雑誌だか覚えていないが、ノーベル賞もレコード大賞も(レコ大がそれなりに権威があった時代)、何もせずに天から降ってくるものではない。取れるものも、取りに行かなければ取れない、といった趣旨のことを書いたことがある。そしてそのころ理研の理事長にインタビューした際、そういうアドバイスをした記憶があるが、そのあたりからスウェーデンでのロビー活動を日本も必死に始めたのではないだろうか。いずれにせよ、近年の受賞者の著しい増加は、ある意味ではそうしたロビー活動の成果と言えなくもない。
 余談になるが、科学や文化、スポーツなどの世界での日本の最近のロビー活動は目を見張るものがあり、それだけ国際社会からもそれなりの評価を得ているのは、日本の将来を考えると決して悪いことではない。
 一方、政治がからむ分野では、日本はあまりにも甘く、また安全保障の面でアメリカに頼りきりになってきたということもあり、お隣の韓国に比べてロビー活動があまりにもお粗末と言わざるを得ない。
 今日のブログは連載を始めたばかりの朝日新聞問題の検証に割り込んで投稿するが、そもそも慰安婦問題が生じた背景には戦後の「一億総懺悔史観」(大宅壮一氏)(いわゆる「自虐史観」とは違う)の一端があると私は考えている。物理的に不可能な「百人斬り」を美談としてねつ造したり、いまのイスラム過激派のような自爆精神を美化したりしてきた先の大戦時のメディアが、大戦時に取ってきた姿勢への行き過ぎた「反省」が生み出した「勝てば官軍、負ければ賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」の歴史認識基準の延長で、「すべて日本が悪うございました。原爆を落としていただいて、やっと気が付きました」と言わんばかりの姿勢で、戦後の日本社会の精神的規範を構築してきた結果にすぎないと私は考えている。メディアも政治もそうした姿勢では、韓国のようなロビー活動ができるわけがなく、河野談話ひとつとっても、作成過程の検証作業を行って、米オバマ大統領が顔をしかめた途端「河野談話の見直しはしません」と這いつくばってしまうような人が、国際社会における日本の尊厳を回復できるわけがないではないか。
 早朝で、時間があまりないのに余計なことについ指先が向かってしまった。本題に戻す。

 今回のノーベル物理学賞の受賞については、私も日本人の一人として素直に「おめでとうございました」とお祝いを申し上げたい。が、率直に言ってノーベル物理学賞に相当するような物理学の分野への貢献と言えるのか、と考えると忸怩たる思いがしないわけではない。
 実はそういう私の思いには、一つの「色眼鏡」がかぶさっていることを率直に申し上げておく。その「色眼鏡」について書く。
 この秋、特許庁が特許の権利について、発明者ではなく企業に帰属させる方向で検討に入った。いずれ方向がはっきりした時点で、この問題について書こうとは思っていた。それが、今回の色眼鏡になっている。そのことをあらかじめはっきりさせておく。
 特許の権利が誰のものか、が社会的に大問題になったきっかけを作ったのが、実は青色LEDの製品化に成功した中村修二氏だった。中村氏は徳島大学大学院修士課程修了後、地元の日亜化学工業に就職した。中村氏は当時世界中の科学者や研究者たちがしのぎを削っていた青色発光ダイオードの開発を社長に直訴して許可を貰い、米フロリダ大学に1年間留学して研さんを重ね、帰国後同社で高輝度青色発光ダイオードの実用化技術の開発に成功し、その後渡米してカリフォルニア大学で教鞭をとっている。
 中村氏は渡米後、日亜化学工業を相手取って訴訟を提起、1審は中村氏の主張を全面的に認めて会社側に発明の対価として200億円を支払うよう求めた。最終的には8億円で和解が成立したが、中村氏は納得せず「日本の司法は腐っている」と記者会見で怒りをぶちまけた。
 中村氏が発明の対価を要求して訴訟を起こしたのは、日亜化学工業の社長交代によって青色ダイオードの開発にストップがかけられ、それ以降は会社の許可を得ない「アングラ研究」を続け、その成果としての発明であり、したがって特許の権利は会社ではなく、自分にあるという理由からである。
 アングラ研究は企業によって位置づけが異なり、一定の勤務時間内であれば自分の裁量で自由に研究できるという制度がある企業もあれば、ときには会社に内緒で密かに行う研究(上司の許可が下りなかった場合によく行われる)もある。中村氏の場合はそれに該当すると思われるが、自宅で、材料や研究器具も自費で調達し、休日に行った研究の成果であれば、100%自分の権利と主張しても差し支えないと思うが、研究は勤務時間内に行い(研究者の場合、不規則勤務=自己裁量=が認められているケースが多く、その場合は会社内での研究は深夜だろうが早朝だろうが、時間外にはならない)、しかも材料や研究器具の購入も、認められた研究のために必要として申請するケースが大半であり、中村氏の場合、自費購入があったのかどうかが、どの程度権利の主張に合理性が認められるかの判断が分かれるところのはずだ。ただ「アングラ研究」で発明したというだけでは、権利の主張は難しいのではないかと私は考えているので、特許庁の判断に私は大きな関心を持っている。
 もっとはっきり言えば、会社の利益に貢献するのは発明だけではない。
 たとえば営業マンが新規顧客の開拓に成功し、それが会社の収益のかなりを
占めるようになったからと言って、営業マンがその収益に対する分け前を主張する権利はあるだろうか、と考えたら結論はおのずと明らかなはずだ。
 日本では中村氏の訴訟の後、オリンパス光学工業、日立製作所、日立金属、味の素、キヤノンなどの元技術者たちが、自分の発明に対する対価を求めて訴訟を起こすという騒ぎになった。
 これは日本だけで解決できる問題ではないが、特許の権利を個人に限定するという、大昔からの欧米のシステムが、国際社会共通のルールとして存続していることに起因する問題であろう。そのため、企業におんぶにだっこで開発した技術に対する報酬の在り方は、新規顧客の開拓に成功した営業マンに対する報い方と同じレベルでなければおかしい、と私は考える。たとえアングラ研究の成果であっても、材料や研究器具の自費購入の実績がないかぎり、権利は企業にすべて帰属し、企業側は収益に対する貢献度に見合った、それなりの報い方を考えるのが筋であろう。
 そうしないと、1発ホームラン狙いの研究にばかり血道を上げる研究者が続出しかねず、かえって企業収益のベースとなる現行技術の改良や技術革新がおろそかになりかねない。
 ことのついでに、STAP論文問題で明らかになったことのひとつは、科学論文には著作権を認めるべきではないということだ。著作権というのは、著作物に対する責任を負う者が獲得できる権利であるから、責任を負わない著作物に名前を連ねる人数のほうが、責任を負う人よりはるかに多いということは、科学論文は、世にいう著作物には相当しないと考えるのが合理的である。ま、たとえば村上春樹氏の小説に出版社の社長以下出版局長、編集局長、担当編集長、さらには担当編集者から会合の席にお茶を運ぶアルバイトまで共著者として名を連ねるようなものだからだ。この問題を考えるとむしゃくしゃすることが多すぎるので、年寄りの癖でつい絡みたくなってしまった。(了)