小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日・木村社長の大誤算――誠実に謝罪したつもりが大バッシングを生んだホントウの理由①

2014-10-07 07:40:00 | Weblog
 なぜ朝日新聞は窮地に追い込まれたのか。
 朝日問題を読み解くための最大のポイントは、木村伊量社長の9月11日午後7時30分から2時間半にわたった記者会見での事実上の引責辞任発言にある。
 木村発言の主要な要素は二つに因数分解できる。「因数分解」などという中学時代の数学で習った言葉に面食らった方も少なくないかもしれないが、メディアとくに『週刊文春』『週刊新潮』が、木村発言の言葉尻を捉えて朝日事件の真相があたかも慰安婦問題についての誤報と、誤報の訂正(記事の取り消し)が遅きに失したことにあるかのような特集記事を毎号毎号、これでもか、これでもかと書きたてているので、あたかも木村氏が慰安婦誤報問題の責任を取って辞任に追い込まれたかのような印象を持っている人が、私の周りにも実に多い。
 はっきり言えば、週刊誌のような娯楽誌は、購読契約を結んでいない読者(基本的に毎週買っている人でも、新聞のような定期購読者とは言わない)に書店の店頭で週刊誌を手に取り、そして買ってもらうためには、読者が興味を持ち続けるようにエキセントリックなタイトルをつけて朝日攻撃を続けるのがビジネスの目的になっていることは否定できない。が、その火を消すのは原因を作った朝日側にあり、朝日新聞は問題の所在がどこにあるのかを明確にすべき責任がある。「間違えているのは週刊誌のほうだ」ですむ話ではないからだ。

 木村氏の記者会見での謝罪は二つの報道に関してのものだった。
 一つは福島原発の政府事故調査・検証委員会が第1原発所長だった吉田氏(故人)から聞き取り調査した、いわゆる「吉田調書」についての5月20日の記事。
 もう一つは今年8月5,6の両日にわたって大々的に報じた慰安婦問題、とくに吉田清治のねつ造小説『私の戦争犯罪』にまつわる記事を取り消したこと。
 本来、この二つの問題は別個のはずであり、さらに池上氏に依頼した原稿をボツにしたケースまで含めて、木村氏がなぜ、ごちゃ混ぜにした謝罪の記者会見を行ったのか、というメディアのトップとしての見識が問われても仕方がないケースである。木村氏の発言要旨は朝日新聞によれば、池上原稿ボツ問題も含めて次の3点である。

 ① 朝日新聞は吉田調書を入手し、5月20日付朝刊で「東電社員らの9割に当たる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」と報じた。しかし、吉田所長の発言を聞いていなかった所員らがいる中、「命令に違反 撤退」という記述と見出しは、多くの所員らが命令を知りながら第一原発から逃げ出したような印象を与える間違った表現のため、記事を削除した。調書を読み解く過程での評価を誤り、十分なチェックが働かなかったことなどが原因と判断した。
 ② 朝日新聞が韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故
人)の証言を虚偽と判断し、関連記事を取り消したこと、その訂正が遅きに失
したことについて「お詫びすべきだった」と謝罪した。
 ③ 慰安婦特集について論評した池上彰氏の連載コラムを見合わせた判断については「言論の自由の封殺であるという思いもよらぬ批判があった」「責任を痛感している」とした。

 実は週刊誌は、社長の引責辞任につながった朝日新聞の報道について、意図的なおかしな追及を始めた。朝日新聞の責任は慰安婦報道によって日本の国際的信用が損なわれたという指摘である。朝日新聞の報道姿勢に対して、考えようによってはもっとも手厳しい批判をしてきた私がおかしいと思うのだから、やはり意図的と指摘せざるを得ない。
 もっとも、おかしな批判を許した原因は朝日新聞自身にあるのだから、「自業自得」と言えなくもないが…。
 まず、週刊誌などによる猛烈な朝日新聞バッシングが始まったのは、8月5,6の両日に同紙がようやく吉田清治のねつ造「ノンフィクション」を根拠に行ってきた慰安婦報道が間違いだったと認めた日からではない。木村氏が事実上の引責辞任を表明した9月11日以降である。
 朝日新聞は慰安婦報道も吉田調書報道も、ともに「誤った」としか説明していないが、報道における「誤ち」とは「誤報」か「ねつ造」か、の二つしかない。まずその視点を大半のメディアは欠落していることを指摘しておきたい。
 そのうえで、吉田清治のねつ造「ノンフィクション」を大半のメディアが信用した時代背景と、戦後一貫した朝日新聞の報道スタンスを切り分けて検証する必要がある。そのことはすでに何度もブログで書いてきたし、私も何度も繰り返すのは飽き飽きしているが、やはりもう一度書いておかなければならない。
 先の大戦時の軍部独裁政権を生み育てたのはメディア自身に他ならず、敗戦後のメディアの「反省」がとんでもない「責任回避」を生んだことにある。軍部独裁政権下においても、弾圧されたのは共産党と共産主義者だけであって、社会党は権力による監視下にはあったと思うが、直接の弾圧は受けていない。野党も存在したし、選挙制度も民主主義的な(ただし当時としては、という限定つきだ。現在の選挙制度にもいろいろな欠陥がある)制度が維持されていた。実際無謀な戦争に反対していた吉田茂氏もとくに弾圧されていたわけではなく、メディア(当時のメディアは新聞だけと考えてよい。ラジオですら一部の特権階級しか持てなかった時代だ)はほとんど自由に書けた時代であった。

 私が、先週の連載ブログで明らかにした第1次世界大戦への日本の参戦の経
緯は、メディアに相当なショックを与えたようだ。
 実は、私自身、ブログを書いていて、ふと疑問に思ってネットで検索して初めて知った事実である。それまで私はすでに軍国主義への傾斜をまっしぐらに走り始めていた日本が、日英同盟を口実にアジア侵略への巨歩を踏み出した戦争だと思っていた。が、事実はそうではなかった。私自身が、いかに司馬遼太郎氏のねつ造歴史小説によって染め上げられた色眼鏡をかけたままだったということに嫌というほど気づかされた瞬間だった。恐るべき自らの無知というより、無感覚さにバットで殴られたような衝撃を受けたのが偽らざる思いである。
 私の色眼鏡に大きな影響を与えたのはウィキペディアによる「集団的自衛権」についての解説でもある。集団的自衛権についてのウィキペディアの解説は、私が初めて調べた昨年8月以降、何度も書き直されたり加筆されたりしてきたが、一貫して書き換えられていない解説がある。その個所はこうだ。
「個別的自衛権(自国を防衛する権利)は同憲章(※国連憲章)成立以前から国際法上承認された国家の権利であったのに対し、集団的自衛権については同憲章以前にこれが国際法上承認されていたとする事例・学説は存在しない」
 この解説が正しいとすれば、では第1次世界大戦において、イギリスが日英同盟を口実に、日本に執拗に参戦を求めた「権利」はいかなる性質の権利だったのか。私にはイギリスが行使しようとした権利こそ、集団的自衛権のように思えるのだが…。
 そして日本がイギリスの要請に応じて参戦する条件として、アジアにおける国益の拡大を要求したのは、いったいどういう権利なのか…。そして日本の要求した権利を国際社会が容認したのはなぜか…。
 そしてまた、その時代に日本のメディアはどういう報道をしてきたのか。近現代の歴史認識の検証作業で、すっぽり抜け落ちていた時代はないのか…。
 あるいは明治維新が目指した日本の近代化についての、今日的視点からの再検証の必要性はないのだろうか。「日本は昭和になってから道を間違えた」といった司馬史観の色眼鏡に、政治家やメディアだけでなく歴史学者さえもが汚染されたままで、過去と現在の日本を子供たちに教えていいのだろうか。
 私自身、いま強烈な虚無感に襲われている。今日はこれ以上書くことができない。