小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

パソコンのトラブルは解決した。読者の真面目な批判に私も真面目に答える――ノーベル賞受賞に関して。

2014-10-14 07:00:47 | Weblog
 私のパソコンのトラブルはすべて解消した。
 原因も分かった。悪質な「ネット高速化」ソフトの「いたずら」(?)が原因だった。感染性のウィルスではないことがはっきりしたので、安心してブログを再開できる。そのソフトの名は
  Active Speed
という。なぜ私のパソコンに入り込んだのかはわからない。が、ネット上で私がアクセスしたわけではないので、そのソフトに汚染された状況から考えて(アウトルック(メール)を開いた瞬間に汚染された)、どうやらメールに無断侵入したようだ。
 このソフトの被害に会われた方はご存じだと思うが、ほとんどのアイコンがしっちゃか・めっちゃかにされた。たとえばトップ画面でアウトルックをダブルクリックしたとたん現れたのが、このソフトであり、「今すぐインストールする」というボタンが画面に現れる。もちろんそんなボタンは危なくて押せない。が、インターネットエクスプローラのボタンはプリンターのガイド、ワードのボタンは…といった具合に、ほとんどすべてのアイコンが別のボタンに置き換えられてしまった。
 その「いたずら」にはすぐ気付いた。アイコンの下にはアイコンの説明がついているが、それがめちゃくちゃにされたのだ。そしてとんでもない別のアイコンにワードやインターネットエクスプローラの文字が書き込まれていた。そのアイコンをダブルクリックすれば、ちゃんとインターネットやワードの画面が開ける。そのことにはすぐに気付いたが、アウトルックの文字がついたアイコンだけはどこにもない。本来のアウトルックのアイコンを押せば、
  Active Speed
の画面が現れる。また困ったのはファイルが消されたことだった。修正しないデータは外部記録媒体に保存するが、しょっちゅう書き加えたり、修正したりするデータは「上書き保存」してパソコンに残している。明日から再開する朝日新聞の問題追及の書きかけの文書も「上書き保存」していた。それがすべて消えてしまったのだ。これには本当に困った。
 それに新たにワードで書いてブログ画面に貼り付け投稿すると、私のブログを開いた方に感染する恐れがある。そのため9日のブログはワードでは書かずにブログ画面に直接書いて、簡単に事情を説明させていただいたというわけだ。
 問題の解決も簡単だった。 Active Speed の画面をどうしても消せなくなった。バツボタンでも閉じられず、強制終了しても頑固に居座り続ける。連休が明ければパソコンメーカーに連絡するつもりだったが、「どうせメーカーの技術者に来てもらうのだから」と、パソコン本体の電源を落としてしまった。つまり省エネのための自動シャットダウンではなく、手動でシャットダウンしたのだ。これで問題はすべて(とりあえず)解決した。アイコンは正常な状態に戻り、ファイルもすべて回復した。
 このソフトの極めて悪質な手口に引っ掛かり、面倒だとソフトをインストールしてしまったら、いくら金額を請求されていたことか。莫大な金額を請求されたりしたら、刑事問題になってしまうだろうから、おそらく消費者にとって泣き寝入りするだろう程度の金額の被害にとどまったかもしれないが、やり方が汚すぎる。念のためネットでこの悪質なソフトを検索してみたら、案の定インストールしてしまった消費者がアンインストールできずに困っているというQ&Aが検索結果の真っ先に出てきた。
 私はプロバイダーに「迷惑メール」の自動振り分けをお願いしているが、それでも侵入してくる【meiwaku】メールが後を絶たない。確かにコンピュータは人類に新しい世界を与えてくれたが、犯罪者には新しい犯罪の手口も与えたことを、パソコン利用者は常に頭の片隅に記憶しておくべきだろう。

 さてブログの再開に際して、ある読者から寄せられたコメントに対してお答えしておきたい。8日に投稿した『号外――ノーベル物理学賞3人受賞。が、素直に喜べないこともある』に対する、ある研究者からのコメントである。真面目なご批判をいただいたので、私も真面目にご返事させていただく。
 この研究者の方は、メディアのかたと同様、研究職という仕事を特別なものと考えておられるようだ。
 ご自分の仕事に強い自負心をお持ちなようだが、それはそれで「ご勝手に」と申し上げたいところだが、この研究者はこうコメントされた。
「研究者と営業マンを同列に見ているのに驚きです。なぜ研究者が営業マンに足を引っ張られなければならないのでしょう」
 私はこの研究者の「研究者を営業マンと同列視すべきではない」という恐ろしいほどの驕りに驚いた。
 では、こう聞き返したい。研究者が、自分では特別な画期的な技術を開発した、とうぬぼれたとする。で、「この技術を使った商品を売ってこい」と営業マンに命令する権利があるのかという問題だ。「そんなことは言っていない」と反論されるだろうが、そう言っているのだ。コメントに書かれている言葉をそっくり書き換えたら、そのことが分かる。
「営業マンを研究者を同列に見ているのに驚きです。なぜ営業マンが研究者に足を引っ張られなければならないのでしょう」

 私がこのブログで言いたかったことは二つある。一つはノーベル賞の基本軸が変わったのかという問題提起である。そのことは、物理学賞の発表の翌日に発表された化学賞の受賞理由を見て、さらに明らかになった感じがする。私がブログを投稿した時点では化学賞の発表はされていなかったが、化学賞も基礎研究に対する評価ではなく、「超高解像度・蛍光顕微鏡の開発」だった。
 研究には大きく分けて基礎研究と実用化研究の二つの分野があることくらいは私も承知している。あるいは両分野にまたがった研究に従事している研究者も少なくない。最近はあまり聞かれなくなったが、一時「学際」という言葉が流行ったことがある。二つの異なる学問の領界分野を指す言葉だった。ワードが「がくさい」という言葉を認識しないほどの死語になっているとは、さすがに私も思わなかったが…。
 私は基礎研究のほうが実用化研究より大切だ、などとは一言も書いていない。単なる事実としてノーベル賞の世界にも大きな変化が訪れてきたのかな、ということをジャーナリストの感覚で書いただけだ。基礎研究に従事する研究者は基礎研究こそ大切だと考えているだろうし、実用化研究に従事する人は実用化してこそ意味があると考えるのは当然である。
 たとえば第2の産業革命、と私は考えているエレクトロニクスの世界を切り開いた研究者たちは無数にいる。が、その第1歩を記したとしてノーベル物理学賞を受賞したのは、のちに「三本足の魔術師」と呼ばれるようになったトランジスタを発明したウィリアム・ショックレーら3人の固体物理学者だった。が、「真空管にとって代わることは不可能」と言われていたトランジスタの実用化に成功してエレクトロニクスの世界を実際に切り開いたのは東京通信工業(現ソニー)の研究者たちだった。
 トランジスタの原理は、ショックレーらより早くから知られていた。同様に今回の物理学賞受賞対象となった青色LEDの原理は古くから知られていた。ただ、今世紀(20世紀)中の開発、すなわち実用化は無理だろうと言われていた。
 実用化研究の目的は「低コストで安定した品質の量産化技術」の開発である。この技術の開発がなければ、ハイビジョンTVやブルーレイ、4Kも「絵に描いた餅」にとどまっていただろう。メディアは、交通信号やスマホなど理解しやすい成果を報じているが、画像の高精細化は単にデジタル技術による帯域圧縮に成功しただけでは、その恩恵に私たちは与ることはできなかった。青色LEDの実用化(低コストで安定した品質の量産化技術)なしには、高精細の世界を私たちは手に入れることはできなかった。が、その高精細の技術を本当に私たちが楽しめるようになるには、画素のさらなる微細化技術を必要としている。
 いま、ブルーレイの高画質を手に入れるためには、おそらく60インチ以上の大画面が必要なはずだ(フルハイビジョン映像も同じ)。4Kとなると、もはや家庭用テレビの限界を超えてしまう。日本の住宅事情から考えると30~40インチがテレビ画面の限界だと思う。4Kのさらなる先は、映画館あるいはスポーツ会場などの巨大スクリーンになるのだろう。
 一つの技術が「学際」的分野の技術革新への導火線になることは、過去多くの例が示している。そういう意味で、私は青色LEDの実用化技術の開発がもたらしたものは、学問や研究分野の壁を越えて大きな広がりを作ったと、高く評価はしている。私は決して青色LEDの実用化技術を過小評価しているわけでは
ない。ただ、いいか悪いかは別にして、ノーベル賞の受賞基準が変わりつつあるのかな、という素朴な疑問を提出しただけだ。その思いは、受賞者である中村氏自身が率直に述べているではないか。中村氏の率直な感想は、私のブログにも書かせてもらった。

 もう一つは、特許庁が特許の権利について、発明者ではなく企業に帰属させる方向で検討に入ったことに絡めて書いたことだ。中村氏が日亜化学工業を相手取って訴訟を起こしたケースについて、訴訟内容を詳細に知っているわけではない。メディアも、なぜか当初から中村氏の応援団を買って出ていた。中村氏は、ブログでも書いたように、開発研究の途中で会社からストップがかかり、アングラ研究で開発に成功したと主張している。私がブログで書いたのは、中村氏がその研究に自費をどれだけ投じたか、という点にのみ彼個人の権利の大きさは左右されるべきだということだけだ。
 が、メディアが正確に報道しなかったのかどうかは分からないが、中村氏が8億円という大金で和解したことを契機に、日本でサラリーマン研究者が次々と特許の権利をめぐって訴訟を起こす事態になった。いまそうした流れがさらに加速しているのか、収束に向かいつつあるのか、メディアは問題が起きた時だけ大きく取り上げ、収束しつつあるときは事実さえ報道しないから、今どうなっているのかは不明だ。
 私の推測としては、いま特許権を巡る紛争は生じていないため、特許庁はルール作りの絶好のチャンスと考えたのではないだろうか。会社の中で、企業の金を使って行った研究活動の成果である【特許権】はすべて会社に所属する。もし研究者が特許に対する幾分かの権利を要求できるとすれば、自費で海外に出かけ、海外の研究者から大きなヒントを得たといった事実が必要だろう。あるいは会社の金を使わず、自費で実験器具や研究材料を購入していたという事実が必要だろう。
 すべて会社の金を使い、会社の許可を得ないで勝手にやった研究が、たまたま大きな成果を生んだからと行って、自分は特別扱いされるべきだといった傲慢さは認められるべきだろうか。
 私は中村氏が、日亜化学工業から研究をストップされた時点で辞表をたたきつけ、1年間留学した先の米フロリダ大学に戻って研究を続けて成果を上げたのであれば、彼の開発努力は金銭的にはもっと恵まれていたであろうし、当然恵まれるべきであった。
 が、企業内研究で、会社から承認を受けた開発で大きな成果を上げたのであれば、中村氏もそれなりの処遇を受けていたと思う。中村氏にとって不幸だったのは、いったん会社から承認され予算もついていた研究目的が、アメリカ留学から戻ったら経営者が変わり、研究にもストップがかけられたという同情すべき要素があったことは確かである。
 そうした状況の中で、中村氏に他の選択肢がなかったのか。少なくとも三つ
はあった、と私は思う。
 一つは会社の命令に従って青色ダイオードの研究を止めて、会社から与えられた別の研究テーマに取り組む。
 もう一つは、青色ダイオードの研究に価値を認めてくれる企業なり大学、あるいは理研のような研究組織に新しい研究の場を求めてリクルートすること。
 三つ目は、会社に秘密で社内で密かに研究を続けること。そういう研究をアングラ研究といい、アングラ研究を一定の割合で認めている会社もある。日亜化学工業の場合、アングラ研究を認めていなかったのではないかという感じはするが、そうしたケースにたまたま自分がぶつかったからと言って「日本にはまともな研究風土がない」と決めつける独断性には、私は到底ついていけない。
 確かに、研究者に限らず、スポーツ選手などの海外流出も、近年とみに盛んである。たとえば元楽天の田中将大投手など、契約金が1憶5500万ドル(7年間)、年俸2200万ドルなどと聞くと、私の金銭感覚の理解の度をはるかに超えてしまう。アメリカでは野球はバスケットボール、アメフトに次ぐ3番目の人気スポーツだ。ヤンキースタジアムなど野球場としては小さいし、いったい観客が払う席料はいくらになるのか見当もつかない。
 研究者やスポーツ選手がアメリカにあこがれるのはなぜか。最近プロ野球に限らずサッカーもゴルフも一流選手がどんどん海外に活躍の場を移していく。もし金銭的待遇の差が大きな要因だとしたら、日本がどう逆立ちしてもアメリカには勝てない。
 理由は二つある。
 一つは、経済力の差だ。人口だけをとってもアメリカは日本の約2倍だ。つまり基本的なパイの大きさが違う。それに田中投手の場合には、プロ球界では世界一の人気球団のヤンキースに入団した。おそらくヤンキースには観客の入場料だけでなく、テレビの放映料やその他のスポンサー契約料など桁違いの収益源があるから、田中投手にもそれだけの大金を払ってもペイするのだろう。
 もう一つは、社会構造の差がある。アメリカのプロ球界の場合、1A、2A、3Aを経てようやくメジャーリーグに昇格できる。3Aになるとようやく飯が食えるようになるらしいが、2A以下の選手の生活はいま日本で社会問題になっている「外国人研修労働者」並みかそれ以下らしい。つまり「一将功成って、万骨枯る」社会構造によって一流選手の優雅な生活が保障されている。それがハングリー精神の源泉と言われれば、一概には否定できない。
 研究者のケースも似たようなものだ。中村氏のような一流の研究者にとっては、アメリカはおそらく天国のような環境の中で研究活動を続けられる国なのだろうが、研究者の世界もスポーツ選手と同じ「一将功成って、万骨枯る」の世界なのだろうな、と思う。
 アメリカのような、言うなら「アメリカン・ドリーム」が実現しやすい社会構造、つまり「一将功成って、万骨枯る」社会構造を日本人が望むのであれば、それは日本人の総意で決めればいいことであって、一握りの有能者と自分が思っている研究者が決めるべきことではない。
 少なくとも「研究者は特別な存在だ」などという反吐(へど)が出るような思い上がりは、日本社会では受け入れられない。私に言わせれば、研究者も営業マンも、農業従事者も、それぞれの能力と職種に応じたフェアな報われ方がされる社会になってほしいと願っているだけだ。
 
 なお、最後にだれのことかは知らないが、コメントの最後に「日本人ってホント僻み妬み体質ですね」とあった。誰のことかわからないが、私に対する非難ではなさそうなので(?)、ひょっとしたらご自分のことなのか…。
 久しぶりにブログを書いたので、少し肩に力が入ったようだ。
 また、ついでになってしまうが、朝日新聞批判の続きはもう少し待ってもらって、マララさんのノーベル平和賞受賞にも、私は素直に喜べない要素がある。香港での政府と学生の対立、ウクライナの内紛とからめてメディアがなぜ間違うのかの検証を、明日はしたい。