小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

オバマ大統領は「イスラム国」攻撃理由を個別的自衛権とした。安倍さんの集団的自衛権論の根拠が崩れた。③

2014-10-01 07:19:12 | Weblog
 日本人が国家権力によって危険にさらされたことがあった。戦後、唯一の事件である。イラク・フセイン政権による、いわゆる「人間の盾」事件だ。
 1990年8月2日、イラクが突如クウェートに侵攻して湾岸戦争が勃発した。このとき、フセイン政府は日本人を含む在イラク・在クウェートの外国人を人質として軟禁、国外移動を禁止した。フセイン政権によって人質にされた日本人は141人。大半は民間人だった。
 人質にされた日本人の、日本の家族や友人、会社の同僚たちは神に祈るような気持ちで彼らの無事を祈ったはずだ。御嶽山で、いまだ安否が気遣われている登山者の家族や友人たちの思いと共通したものがある。
 彼らは当時の海部首相にも、祈るような気持ちで人質救出のための最大限の努力を期待したと思う。私の家族や友人が、その時もし人質にされていたら、おそらく私は居ても立ってもいられず首相官邸に押しかけ、海部首相に会えなくても日本人救出に国の総力を挙げて取り組んでもらいたいと、必死の思いでお願いしていたと思う。
 が、海部首相はこのとき、わが国民の命のゲタをアメリカと国連に預けただけで、自国の責任で日本人を救出することは一切念頭になかった。もちろん外交ルートを通じて人質解放交渉はしたが、出口はまったく見えなかった。そうした状況下で、アントニオ猪木氏が動いた。猪木氏は12月1日、イラクで「平和の祭典」を行うと発表、このパフォーマンス「外交」に外務省は難色を示したが、猪木氏は自分のポケットマネーでトルコ航空機をチャーターしてイラクの首都・バクダッドに単身乗り込み、イベントを開催した。その後、フセイン政権は在留日本人と全人質を解放した。
 
 その6年後の1996年12月17日にペルーの首都・リマで日本大使公邸占拠事件が勃発した。武力占拠したのはペルー政府ではなく、武装したテロリスト集団だった。
 この日、日本大使公邸では日本の特命全権大使の青木盛久氏をホストに天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた。宴たけなわの午後8時過ぎ、隣家の塀を爆破して覆面をしたテロ集団が乱入、まったく無防備だった公邸を完全制圧・占拠した。このテロ集団はわずか14人、各国のペルー大使とその家族、日本大使館員や日本企業のペルー駐在員とその家族ら約600人を人質にして公邸に立てこもった。
 テロ集団がペルー・フジモリ政権に突き付けた要求は「逮捕、抑留されている仲間全員の釈放と国外退去の保証」というものだった。もし同じような事件が日本で生じていたら、日本政府は直ちにテロ集団の要求に屈していただろう。赤軍派による日航ハイジャック事件のことは日本人からだけでなく、国際社会からも、「日本はいとも簡単にテロに屈する国」と烙印を押されてしまった事件だった。その後も、日本はテロに屈し続けている。もっとも私はテロに過剰反応するアメリカのやりかたを支持しているわけではない。
 ペルーの人質事件はテロ組織にとっても厄介な問題を抱えることになった。武装したテロ集団の人数はわずか14人。人質の数は約600人。人質は非武装であり、テロ組織は完全武装。が、どんなに広いパーティ会場でも600人を1室に閉じ込めて拘束することは到底不可能だ。結局、いくつかの部屋に分散して拘束するしか方法はない。が、テロ集団も重い武器を抱えて、何日も眠らずに人質を制圧し続けることなど不可能だ。まず女性や高齢者、子供たち約200人を解放、さらにアメリカ人だけを特別扱いして早期に開放した。アメリカの特殊部隊が、米人質のみを解放するための軍事行動に出ることをテロ組織が怖れたためと言われている。
 事件発生直後からフジモリ大統領は、武力突入作戦の検討を始めた。テロ集団に襲撃されたのがペルーの主権が及ばない日本大使公邸であったため、日本政府(橋本内閣)に打診した。「テロに屈する国」と国際社会から“称賛”を浴びていた日本政府としては、やはりテロに屈する国是に従うことにしたようで、「平和的解決」をフジモリ大統領に要請した。ために事件の解決が長引いた。
 事件発生から1か月もたち、さすがに国内外から批判が高まり、フジモリ大統領はペルー警察当局に実力による人質救出計画の策定を要請した。日本政府の了解なしに実力行使計画を練っていたとしたら、重大な国際法違反であるが、そのあたりの外交ルートを通じての日ぺの交渉については、現在も明らかにされていない。
「結果良ければ、すべてよし」という日本社会に根付いた精神的規範が国際社会からどう評価されるだろうか、などといった国際社会の反応は常に想定外の日本政府だから、事件発生から127日後にペルーの特殊部隊が密かに掘削していたトンネルから日本大使公邸に突入、最後まで拘束されていた日本人24人を含む71人全員を無事救出したことについても、重大な主権の侵害であったにもかかわらず、「結果良ければ、すべてよし」で不問に付すことにした。特殊部隊からは2人の隊員が犠牲になり、人質救出のため命を捧げた彼らには多くの日本人から義捐金が寄せられた。その後、日本の政府高官は訪ペルーの際には、必ず2人の墓前を訪れている。そういう行為を「恥知らず」という。
 メディアも、この作戦を美談として報じてきた。私も、自らの命を賭して人質救出を断行したペルー当局と特殊部隊の方々に、日本人の一人として感謝の気持ちは抱いている。が、そうした情緒的な問題と、日本の主権が日本政府の了解なしに侵害されたという事実は混同できない。日本政府は事件発生直後に「平和的解決」を要請しただけでなく、1か月以上たって事件がこう着状態になり、実力行使以外に事件解決の見込みがないと判断して極秘裏にトンネルの掘削作業を進めていたペルー当局は、カナダ・トロントで橋本・フジモリの首脳会談で強行解決の打診をしている。が、この会談でも橋本首相は「平和的解決」をフジモリ大統領に要請している。平和的解決のための具体的方法の提案すらできなかったくせに。
 事件解決後、日本政府は主権の侵害について沈黙したままだ。

 また日本人が直接巻き込まれた事件ではないが、世界を震撼させたテロ集団による人質事件もあった。「ミュンヘン・オリンピック事件」である。
 この事件は1972年9月5日早朝、選手村に「黒い九月」を名乗るテロ集団8人が自動小銃や手榴弾などで武装して侵入、イスラエル選手団宿舎を襲った事件である。彼らはユダヤ系アメリカ人選手とレスリング・コーチの2名を殺害し、「午前9時までにイスラエルに収監されているパレスチナ人234人(日本人の岡本公三も含む)の開放要求」声明を文書で発表した。この事件は6時20分頃から西ドイツでテレビの生中継が行われた。日本で言えば浅間山荘事件のようなケースで、西ドイツ国民は固唾をのんでテレビにくぎ付けになったという。
 むろんイスラエル政府は「黒い九月」の要求を拒否、事件の解決に国の威信がかかることになった西ドイツ政府は、テロ集団を刺激しないため軍ではなく、地元警察とオリンピック関係者による交渉を始めた。警察側はイスラエル当局と交渉中であると伝え、時間稼ぎをする一方、テロメンバーを射殺する準備を整え始めた。
 イスラエルのゴルダ・メイツ首相は西ドイツに対し、イスラエル軍特殊部隊による救出行動を西ドイツ当局に要請したが、西ドイツ側は「自国の主権にかかわる事件」として拒否(この要請はイスラエル国民に対するジェスチャーのためで、本気ではなかったという説もある)、しかし「黒い九月」には「イスラエル側と交渉中」と、要求をのむ可能性を示唆しながら時間稼ぎを延ばしに延ばし、午後5時頃には非武装のオリンピック関係者を人質の安否確認を口実に宿舎に入らせてテロ集団の人数を調べた。このときテロ集団の人数を5人と見誤ったのが悲劇につながる。
 結局、交渉を諦めたテロ集団は最後に飛行機でエジプトの首都カイロに脱出することを要求し、当局も合意、午後10時、テロ集団は人質を伴ってヘリコプターでフュルステンフェルトブルック空軍基地に向かった。西ドイツ当局は一人一殺を狙い5人の狙撃名手を配置した(多くの狙撃者を用意すると人質を誤射しかねないと考えたと思われる)。結果的には、テロ集団の人数を誤ったことで西ドイツ当局の作戦は失敗し、「黒い九月」のグループは8人中リーダーを含む5人は射殺できたものの、人質9人全員と当局側1名が死亡するという最悪の結果になった。逮捕されたテロ集団の残りの3人は、その年10月29日のルフトハンザ航空ハイジャック事件で解放された。
 この事件は、オリンピック選手村がテロ集団によって襲われるという異常事態ということもあって、世界中の注目を集めたが、国民の安全を守ろうとした国の政府の在り方と、国の主権を楯に自力解決にこだわった国の在り方について、現在の国際社会が(はっきり言えば国連が)まったく無力でしかなかったことを象徴するケースとなった。

 私は今日のブログで、国が国民の命を守るために何をなすべきか、何が国際社会の制約の中でできるのか、自国の憲法など法的制約の中で何ができるのか、そのことをメディアや読者に考えてほしいという願いで書いた。そういうことを国民的議論を経ずに、自衛隊が対処できる具体的事例として、公明党案を丸呑みし、従来の政府の公式見解である「集団的自衛権は、自国が攻撃されていないにもかかわらず密接な関係にある他国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」という定義については一切不問に付したうえで、事実上「警察権」などで対応できるケースに限定しつつ、「憲法解釈の変更」という7文字だけを閣議決定で公明党にのませたのが安倍政権である。
「集団的自衛権」についての考え方が違う、として安保相就任要請を固辞した石破幹事長と、独裁政権を築きつつある安倍総理の対立を、単に権力闘争としか見ることができない日本のメディアの無能さを、つくづくと思う。
 何度もブログで書いてきたが、政府が「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある他国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する」のが集団的自衛権であれば、個別的事例を100並べようが、200並べようが、どう憲法解釈を変更しても権利の行使は不可能である。(明日は戦場で殺害されたジャーナリストに対する報復行為が、果たして個別的自衛権の行使として国際社会が容認すべきか、について読者と考えたい)