Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

伽藍

2010-02-28 | ギターの栄養


自分の中が何かガランとしている

その空洞の中にいろんなものがほんの少しずつ入ってくる



文学 数学 教育学 社会学 生物学 ...と名付けられているもの達

そしてその元締めとして  哲学 ...と呼ばれるものとか...



それらが垣根無く自分の中に入ってくることに安心したのか
何年かぶりに音楽理論書まで手を出した
(ある時期から、音楽をする自分は音楽を何より自分から遠いところに置き、
むしろ音楽以外のものに目を向けていたので)






何か出過ぎた行為をして、誰かを傷つけただろう
とか
自分が酷い目にあったという想いから逃れられない
とか

そういうものを抱えていると自分の場合
生きるのが忙しい


軋む心に効く薬が必要だから
自分が泣いたり、誰かを泣かせたがったり(感動という意味で)
とにかくそういうことを獲得するのに忙しい


忙しいと感じるから、やはり
しばらく続けると疲れる

感動して泣いたり泣かせたりすることに疲れる


自分の場合
感動が、「疲れる類いのもの」であると
どうも学ぶ力が出て来ない

感動して疲れて、それを繰り返して人生を使い切ってしまいそうになる


それも悪くはないが
学びの世界は、感動より
もっと粛々とした、浪々とした喜びがあるように思う

巷で感動と呼ばれるものとは縁遠い微弱な信号を受け取る喜び

その密やかな感動は、きっと人に悟られるほど大袈裟なものではない







自分の中のいろんな依存を払拭してゆくと伽藍としてくる

依存を払拭してゆくと
イージーに他者と関わらなくて済むようになる





ポツンと一人で居る

ポツンとした自分の中は伽藍堂だ


そこに
天井から落ちてくる雨漏りの滴のように
一滴ずつ
学問が落ちてくる






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足 自慢

2010-02-26 | 竹斎先生





おっ?
なんだ?この手は...







オレに来いってか



そのくらいもう屁のカッパ...







ふ~...ちょっとドキドキしたぁ...









おっ!
オレに両手上げさせて何させる気だ..ふふん



これくらい簡単
ステップ ステップ


あ、ほいっ!



くるん
方向転換



クネッ


ほれっ 右足


で  左


右っっっ!








がはははは

いや~、、、愉快愉快




こう言っちゃ何だけどな

オレ






もうすぐ歩くぜ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010-02-22 | 参加ユニット『Kaolune Cafe』




自由に羽ばたく時
永遠の翼を広げて


物憂げに映す空の色も
煌めく光に変えてゆこう


全てを見下ろす丘の上は
小さな自分を今

確かめる場所












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

支え

2010-02-21 | ギターの栄養


この世の中に、自分の期待を絶対に裏切らないと思えるものがある

僕にとってそれは夏目漱石の書き残したもの「全て」である



その理由がもし
漱石の残した文章に自分が感化され尽くして
その中に自分丸ごと内包されてしまったからだとしたら
僕はそれの狂信者ということだろう


だけど自分は特筆するような境遇に育ったわけでもなく
思春期には普通に屈折し
どんな音楽家もそうであるように紆余曲折しながら音楽を続けて来た結果
自然とこうなった


中学の頃は「我が輩」を只の漫画のように読んだだけであるのに
歳を追うごとにこうなってきた


このことは、いったいどういうことなのか
偉いお坊さんにでも訊いてみたい



また、逆に
自分が全くその面白みを感じられないものが最高だと感じる人もいる

故意に意地悪をしてるのではないかと疑うほど真逆な好き嫌いがある



それぞれがここまで生きて来た環境の中で培われたものと
もって生まれた性質との絡みで、そういう違いが出来てくるのだろうが
それにしてもここまで真逆とは...全く不思議な感に打たれる



自分の作品は
自分が惹かれるものを
寄り惹かれる方向へと押し進めた結果の産物である

この先の創作も勿論、そういうふうに進めるつもりである

だから
この嗜好のベクトルが違う人とは音楽を作らない方針をとっている

こういう狭い中で自分は音楽をしている


この狭さが落ちつく

狭い方が内側に広くいられる



残された文章の中そこここで
漱石も同じようなことを感じてることを記している





もし漱石という文学を、世間が評価していなかったら今頃、
僕という人間も
僕の生み出す音楽も
ただの社会性の乏しい未成熟なものとして
行き場の無い闇の中にジタバタしていたかもしれない


かろうじてこうして生きていられるのは
ひとえに漱石という人の価値観がこの世に存在していた時間があった、という事実と
漱石の作品が世の中に評価された、という事実があるからである



しかし何故、漱石の文学が評価されたのだろうか

文系の妻に訊ねてみると
漱石と鴎外が日本文学の二大双璧、ということらしい

二人の共通点は、どちらも理系の定理を重んじているということ

人物の動きを表すにしても背景の移り変わりを表すにしても
物理の定理から外れた表現をしない

言ってみれば
地球の周りを太陽が廻るかのようなことは決して書かない

だから時代が変わっても貫く背骨が揺るがない

時代背景によって刻々と変わる価値観をテーマに書いたものなら
すぐに淘汰されるだろう


自分の音楽も、そういうものでありたい
と思うから
自分の価値観が良きにつけ悪しきにつけ漱石と重なることは嬉しい



ただ
自分と真逆な人達は
どんな普遍性を支えにして生きているのだろう
何を支えに音楽しているのだろう...



こういうことに於いて、ちっとも客観性を持てない自分は
ただただ不思議でしかたない







いつか偉いお坊さんに是非

訊ねてみたいと思うのだ














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無償

2010-02-21 | ギターの栄養



何もしないでジッとしてる

大切な人が発する小さな信号を聴き逃さないように
もうずっとさっきから


自分の立てるノイズの一切を封印して
命の気配さえ消して
そのうち僕はキミに忘れられてしまうかもしれないくらいに




キミの命に僕の命を重なり合わせることだけが
僕に残された最後の...










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.0

2010-02-21 | 竹斎先生





12.0かぁ...









もうちょっとで要るかな、と期待を込めて買ってきた






ちっちゃくて可愛いなぁ





先生の靴








早く歩け~





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11ヶ月

2010-02-18 | 竹斎先生




無事、11ヶ月経ったね~  先生







あと1ヶ月で1歳なんだよ~



しかし先生は
全く親と対等のつもりで生きとる



先生に「子供」という自覚は無いな



あくまで対等な位置に立って主張し、また拒否する






今はこれでいいんだよね


順調 順調














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歯ブラシ

2010-02-16 | 竹斎先生




今日のオレはヨーカドーに歯ブラシ買いに来てな
ついでに子供広場デビューしたんだ





キョロキョロ...


ジーッ...

最初オレより大きい子達が走り回ってたから
ちょっと緊張して動けなかったけど



しばらくしたら誰も居なくなった...






と思ったら急に活発になったオレ


誰も居ないから


もう我が物顔でハイハイ



最近、ベビーカーに乗せられてると嫌がって泣くようになってきた先生
子供広場で遊ぶのにいったんベビーカーから降ろしたのが引き金になって
もうベビーカーに乗せると泣くようになってしまった

抱っことか肩車とか、右手と左手を持ち替え持ち替え
8.5キロの先生を担いで家まで帰って来た




さぁ、いよいよ歯ブラシデビュー






はい、これが歯ブラシだよ


そうそう、そうやって自分で持ってね


ん~~~~~っ! これは!


口の中がチクチクして新感覚!





ということで
歯磨きというよりはまだオシャブリ代わりっていう感覚なんだろうけど
一応、大お気に入りとなった歯ブラシを持ったまま
しばらくは上機嫌に過ごしたのでありました













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学2年生くんたち

2010-02-15 | 過去のライブ後記



先日、ウチに凄く近い小学校に
馬頭琴奏者の妻と出前授業に行った

車で5分くらいという異常な近さ

しかも仕切っておられたのはお母さん達だったから
後日、近所のスーパーで買い物なんかしていてバッタリ再会して
何となく気恥ずかしい想いをするかも、なんて想像しながら現場に入った



二松学舎でやった大人向けレクチャーコンサートの2日後だったので
失敗は無いだろうと安心して行ったのだが
大人を相手にするのと小学2年生くんたちを前にするのでは似て異なるもの
自分としては、発する周波数をどの辺に合わせたら良いか
ちょっと探ってるうちに終わってしまった感がある

そういった意味で反省していたのだが
今日、学校から、コンサート後の子供達の感想文の一部を送っていただいた

どれも可愛らしく、嬉しい気持で読ませていただいた中に
自分の気を引いたものが3つほどあった



「えんそうが風をよんでいるような気がしました」

「目をつぶった時、もうモンゴルに入ったと思いました」

「さいしょのきょくが、水面に何かうかんだような感じがした」




僕は、子供達の前で演奏と朗読をする時
演奏の「音」や、朗読の「声」を聴きながら
それぞれが好きにイメージを浮かべる行為
音と映像をリンクさせながら感じることを何より推奨している

「スーホの白い馬」も、朗読の手前には馬頭琴のBGMをあてがいながら
目を瞑ってモンゴルの広い草原の風景を想像してもらう誘導をする

あとはそれぞれが
想い想いに浮かべた風景が映画のように移り変わってゆく
僕としては、その妨げにならないような間合いで朗読を進めるだけなのだ



僕が子供の頃
何かをしながら別の何かをすると「ながら族」と言われ叱られたが
まさに「ながら族」の推奨

朗読を聴きながら音楽を聴きながら好きな風景を浮かべて
浮かんだらそれを捉まえて離さない
二つ以上の行為をリンクさせ持続させる




子供にも沢山の予定調和がある


コンサートで演奏してくれた見知らぬオジサンとオバサンに感想文を書くなんて
文が変な感じになっちゃって恥をかきたくないし
なるべく普段使い慣れた言葉を使って間違いのないように書いちゃいたい


「馬頭琴の音色が綺麗でした」
「スーホが可哀想だと思いました」など
予定調和的な感想も沢山ある

勿論
子供が感じたものが豊かであったとしても
言葉に変換する時にありきたりの表現になってしまう
ということもあるわけだから
こういった予定調和的な感想文をダメだとは全く思っていない

もう一歩進んで
大人よりまだまだ柔らかい頭を持っているのだから
子供なりの多次元的や俯瞰的な表現を聞いてみたいと思うのだ



気にとまったものを一つずつ、もう一度紹介すると



『えんそうが風をよんでいるような気がしました』

これは「音」や、目の前で繰り広げられている「演奏」という視覚的なものが
「風」という自然現象とリンクして感じられる、と言っている

二つの違うフィールド内のものをリンクさせて
一つのことのように感じるのは芸術の入り口
この子の文章は既に芸術作品なのだ





『目をつぶった時、もうモンゴルに入ったと思いました』

この今自分が居る場所(体育館)で目を瞑ったら
モンゴルの風景が「浮かんだ」のではなく「入った」と言っている
音を聴きながら目を瞑った途端、モンゴルの自然の中に自分が置かれている感覚になった
と言っている
音をステップにしながらイメージトリップを堂々とやってのけているのだ




『さいしょのきょくが、水面に何かうかんだような感じがした』

「最初の曲」とは歌詞の無いモンゴル民謡を演ったのだが
「水面に何か浮かんだような」とは
全くモンゴルとは関係無いキーワードだ

この日「モンゴル」や「馬頭琴」がテーマなコンサートが開かれ
自分達はそれを5時間目に体験するのだ、という情報は
子供達の中に先入観としてインプットされているはず
その「テーマ」と関係無いキーワードが浮かんだ、ということは
その時この子の精神が自由であったと言っても良いのではないかと僕は思うのだ

そうして生まれた作品は
どれも愛おしい芸術作品と呼べるのではないだろうか



我々の想いを継承していってくれる存在である子供は国の宝だ

自分が関われる狭い範囲ではあるけれど
全ての子供達の可能性を
これは良くてこれはダメとは言いたくない

予定調和的感想文を書いた子の頭の中に
どれだけ豊かな風景が広がっていたかは
出前授業という時間枠の中での僕等には検証出来ない
あとは先生や父兄の方に拾っていただくしかない

だが、この3つの感想文のように
既に小学2年生が生み出した芸術的な作品を
単に「国語の表現力の成績」として評価するだけではなく
芸術が持つ力を使って、人と人との関係性が豊かになってゆく何らかのカリキュラムなど
創作してみてはどうだろう、なんて思った


自分が、音楽という芸術のフィールドに在って
小学2年生の芸術的感想文によって心地良くさせてもらえるのだということを
感じている


小学2年生は
大人が十分に感嘆するレベルの
芸術作品を生み出せる力を持っている、という言い方も出来る


そして幼い子供に接し
彼等の天性の才能に驚かされる度に思うことは
我々大人も元々持っているはずだ、ということ

幼い頃、もともと自由だったものが
成長するに連れ、社会性と呼ばれるものの間違った解釈
過度の協調性などを摺り込まれ
孤独な中でしか成し得ない仕事というものが人間には必ずあることを忘れさせ
単純に群れから逸れることを恐れるようになり
自己規制するうち自由は錆び付いてくる

でも、その錆を落として再び自由な精神を持つようになることは
そんなに特別なことではない

そんな仕組みがあることに意識を持ってゆくだけで
きっとすぐに錆が融け始めるだろう











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kaolune Cafe  3/19 (金)

2010-02-15 | 過去のスケジュール記録
【月夜唄】

口に入れたら弾けて消えてしまう
ソーダの泡のようなささやかな音

その泡一つ一つの弾ける一瞬が...ぼくらの宇宙

Kaolune Cafe+ (Kaolune /榊原長紀 Duo)





渋谷 WastedTime 

open18:30 start19:00
adv/1500+2order
door/2000+2order

出演順(敬称略)
01.TimeCamp (19:00~19:30)
02.Kaolune Cafe+ (19:40~20:10)
03.日比康造 (20:20~20:50)
04.ゴッチ (21:00~21:30)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先生の世界

2010-02-15 | 竹斎先生




一日中、遊んで遊んで

パパもママも、もうギブアップすると
まとわりついてワンワン泣いて
暴れて怒って

でも結局最後はこうしてパパかママに抱かれて寝てしまう

先生の世界には今はまだ
ほぼ...パパとママしかいないのだ...








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人情ギタリストの非人情性

2010-02-15 | ギターの栄養


漱石がっている


小説に書き写す対象人物が泣いているのを
作者まで泣きながら写したなら
読者に残された選択はもう「泣く」というものしかない

故に、読者が泣かねばその作品は失敗であることにもなり
それはまた読者への目に見えぬ強要を強いていることにもなる

また、登場人物に自己の想いを投影しすぎることと
客観的な立場で書き進めることから生まれるそれぞれの内容は
同じテーマから出発したとしても明らかに違う

情感に訴える表現を紡ぎ出すことと
制作者の頭に血が上って感情に咽びながら表現することは全く別種のことである




更に漱石は云う

「作者が泣かずにいる」というスタンスで書くなら
「読者を必ず泣かせようぞ」という圧迫も無い
そういう作品が出来る


そんな不人情な作品が人の心を動かすことが出来るか
という人もいるだろう
けれど、写される者を「子」、写す者はその「親」として
そういう目線で書いてみるがいい

子供が転んで膝小僧を擦りむいたといって泣くものを
毎度親までが一緒に泣くものではない
そういう同情の仕方を親は子に対してしない
だからといって親が子に愛情が無いわけではない






漱石がいつも意識している
作品を作る時の作者の「目線の置き処」「立ち位置」
また、それを「非人情」という位置に置くことの重要性
このことを僕は自分の音楽に置き換えている


「非人情という名の俯瞰」をテーマにした作品「草枕」は
孤高のピアニスト、グレングールドのバイブルだった

濃さの固まりであるグールドに関しては好き嫌いが別れるが
ここまで精神論を徹底したミュージシャンは
他にはほとんど類を見ないことは確実といっていいだろう

グールドの風貌を見ても武満徹の風貌を見ても
はたまた灰谷健次郎の風貌を見ても
愛の高みに上り詰めた人達の風貌は皆クールである

そう簡単に泣いたり笑ったりしない
一見冷たい感情に見えるこのスタンスは
本質的には「他者への自由性の提供」という愛を必ず内包している
その愛を生産するために行っている自己内部での葛藤が風貌に滲み出ているのだ


多分、グールドが苦手な人は
その人にとっての音楽の存在価値を
その音に反映された魂の濃さに比例して受け止めているのではなく
もっと音楽を娯楽性に於いて楽しむ人なのだろう(良い悪いという意味ではなく)

かく言う自分も、若い頃はアクの強いジャコパスのプレイが苦手だったが
歳を重ね、音楽と人生を重ね合わせられてきた頃から
そのプレイが180度 違って聴こえてきた

ジャコが暴れれば暴れるほど泣けてくるようになったのだ
それは、そこにジャコの暴れずにはいられない何かしらの心の傷を感じてしまうからなのだ




自分はもともと泣きたい人間である
その想いが強く反映された音を奏でる人間である

出来うることならみっともなくも鼻水を垂らしながら
号泣しながら奏でることを目論みかねない人間である

号泣に我を忘れ奏でている間に
ライフルでこめかみを打ち抜いてもらったら
さぞ幸せな今生の終わりであろうと妄想して止まぬ若い日があった


こういう動機の「涙」であり「音」である

この自分の音色に共鳴し感涙にむせぶ人が在ったとしても
その裏側で息苦しい圧迫を感じる人が必ずどこかに居ることも感じているのだ


その点に於いての「泣くことの表現」に対して
歳をとるごとに慎重になってきた自分が居る



作者が泣きながら作った作品に集まるものは
内輪的同情票であることが多い

それがどんなに強いメッセージを持っていたとしても
狭い音楽だと感じてしまうのだ

勿論狭くたって音楽に間違いというものはないのだから
このスタンスはあくまで僕がとりたいと願っているスタンスだという話しである


ただ狭いと感じるものは狭いと感じる







あるミュージシャンが先日こう言った

「やっぱり精神論なんですかねぇ、音楽は、行き着くところ」


何を以て精神論とするかにもよるが
自己の内部での葛藤は
自分が進むべき方向を見定めるための羅針盤そのものであるから
そういう意味で音楽は、精神論そのものだといえるかもしれない

羅針盤を持たずに何処に向かっているか判る人など居ないはずである






全ての事柄に対して「何故?」という問いを投げかける哲学という学問の
学問する方法論を少し知り
数学の「解くための方法論」に少しだけ触れて
それらの浅知恵を漱石に当てはめ、納得し
また更に答えの出ないことを考え続けている


この出口の無い迷路に迷い込む行為は
僕の場合、不思議と音楽には逆に良い方に作用する



破壊と生産を繰り返すことが生命の根源的営みなのだ、ということを把握した上でなら
出口の無い迷路の中で終わりの無い葛藤を続けることは寧ろ「生産」と呼べる

そしてそれば僕にとって
音楽というフィールドの中で自由と愛を得られる一番生産性の高いの方法なのだ













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寿命

2010-02-15 | ギターの栄養

自分の音楽が相手の深くまで届いていたことを
思いもかけない方向から知らされた時

僕の中に喜びが満たされ


自分のこと   家族のこと

子供のこと


仲間のこと


音楽のこと




全身が茹だるくらい感じられて切な苦しい  









ゆっくり生きて感じられるものがある

生き急いでは感じられぬものがある



でも
生き急がねば全部感じるまでに寿命が足りない




ゆっくり生きて
そして感じ尽くしたいと願う





喜びに包まれた日にもまた
こうして答えの出ない中に居る




穏やかに迷路の中にいる


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今、僕が本当に欲しいもの

2010-02-13 | ギターの栄養





100円のノートと120円のノートをあわせて24冊買って

2600円はらいました。



それぞれ何冊ずつ買いましたか。








[解法]



100円のノートだけを24冊買うとすると 100×24=2400(円)・・・水色の面積

はらった金額との差は、2600-2400=200(円)・・・黄色の面積

黄色の部分の横の長さは、200÷(120-100)=10(冊)・・・120円のノート

24-10=14(冊)・・・100円のノート






これこれ
これだった!
自分が数学に追いついていけなくなったのは

数学じゃない、まだ算数だ
小6に出てくる「つるかめ算」





あっ。。。これもだ

[過不足算]




えん筆が何本かあります。
これを何人かで分けるのに、1人に10本ずつ分けると30本余り
12本ずつ分けると18本不足します。
えん筆は全部で何本ありますか。




上の図のように、たてを分けるえん筆の本数、横を人数とすると面積は必要なえん筆の本数となる。
(分けるえん筆の本数×人数=必要なえん筆の本数)
この問題では、図の黄色の面積を求めればよい。

(18+30)÷(12-10)=24(人)・・・人数
24×10+30=270(本)・・・(全部のえん筆の本数)




そしてこれも

[旅人算]

動体視力的な問題に、当時頭がグチャグチャになった記憶も思い出してきた




動いている2つのものの速さ・時間・2つの間の道のりの関係について考える問題。

AとBが同じ地点から反対の方向に進むとき
AとBの間の道のり=(Aの速さ+Bの速さ)×時間






AとBが向かいあって進むとき
出会うまでの時間=AとBの間の道のり÷(Aの速さ+Bの速さ)






AとBが同じところから同じ方向に同時に進むとき
AとBの間の道のり=(Aの速さ-Bの速さ)×時間






AがBを追いかけるとき
追いつく時間=AとBの間の道のり÷(Aの速さ-Bの速さ)















調べてみたらこれら全部小6の課題

同時に自分が小6の時、何やら勉強が嫌いになっていった記憶も甦ってきた

当時、公立の中学ではなく
私立の中学を受験するかどうか、という
子供心に初めての圧迫が押し寄せて来て
その圧迫に押しつぶされて勉強が嫌いになったと思っていたが
そうではなかったかもしれない

勉強が面白ければ受験もある意味楽しいだろう
単なる息苦しい圧迫ではなかったはずだと今なら思える

受験うんぬんより手前に、既に勉強に躓いていたのだな





数学というものは
一つの定理を証明したらそれを使ってまた次段階の問題に挑んでゆく、
ということらしいから
ある一つの定理を理解することに躓いたら
そこから先はず~っと数学が理解出来なくなるのだそうだ

しかも教科書に載っている説明というのは
それらの定理証明を理解することに於いて
必ずしも親切丁寧ではないのだそうだ


「数」を扱ってゆく数学という学問に於いて
一つの答えを導き出すまでには
その過程で幾つもの多次元的考察が生まれてくるのが自然だが
教科書は、そこを紋切り型に「こうだから、こうだ」と言い切ってしまうのだそうだ

だから
その肌触りに異物感をおぼえた子供は
そこで興味を失ってしまうことも多いそうだ


だから理解出来るとこまで遡って
もう一度数学を学び直したい



下手したら、足し算 引き算から本当の意味に於いて理解していかなきゃならないかも
と思いながら、学年別の課題を調べてゆくと
どうやらこの小6のあたりから自分は「数」の面白さを見失ったようだと気付いた

中学の数学になるともう1年の課題から全滅だった



整数と自然数の違いって何だ?

素数って何だ?

因数って?

じゃ、素因数は?


オイラーって何した人だっけ...



πっていうのが円周率の記号だというのを思い出すのも時間がかかった

算数数学用語自体ほぼ忘れてるから
小4で出てくる割り算の答えのことを「商」と呼ぶことも完全に記憶から飛んでいた

かけ算の答が「積」っていうことは、さすがに憶えてたけど...







「球」の定義...

定点Oから一定の距離rにある点の軌跡を球という。
Oを中心、rを半径とよぶ



ふむ...
中心をOと表現するわけか

rが半径か...

じゃ直径は何ていうんだっけ?

それから「定点」ってのは何だ?

いや...これは...「任意のポイントに点を定めた」ということなんだろうけど
こいつに対しては何か定義付けしなくて良いんだっけ?




一つ知ろうとすると、それに関連する用語の意味が判らなかったり
疑問が出て来たりと、いちいち躓く





しかし今になって
なぜ数学を勉強し直したいか


それには理由がある




それは、今自分が知ってるものより
もっと本当の謙虚さが欲しいからなのだ

表面的ではない
ものの条理に添った心の元に
清々しく生まれてくる本当の謙虚さが欲しいからなのだ

人間関係の摩擦にも粟立つことない
自分の身を本当の意味で低く置ける謙虚さが欲しいのだ



理数系の説明にはいつも
自然の摂理に背かない条理が通っている




ベストセラーになった「動的平衡」の筆者である分子生物学者
福岡伸一さんのこういう発言を聴いた


>>>>>>>>>>>>



500年前の科学は、現在よりもっともっと原始的なことを語っていた
ルネッサンス期の最高の頭脳達
当時の最先端の科学者達が集まって何を話し合っていたかというと
待針の玉の上にはいったい何人の天使が乗れるか
ということを大真面目に大激論していた、という

現在、最先端といわれることも500年後にはそういう宿命にある


だから科学者は自戒の意味を込めて
「説明というものは絶え間のない相対的なものである」ということを
知っていなくてはならない

私たちが語っている言葉というものは常に暫定的なものであり
自己懐疑的であることが知性的である最低の条件である



>>>>>>>>>>>





この真ん中以降の文章

「科学者は自戒の意味を込めて~」から最後まで



僕はこの福岡さんの言葉に
「宇宙全体の中にただ在る、一存在」としてのニュートラルな心を感じるのだ

不動の物理定理の元に
「そこ」に辿り着くべくして辿り着いた
その丘の上から俯瞰した風景を語っている

うねるような大きな流れの中に混じって
ただ流されてゆく一分子に自分を見立て
その自然の流れに背かず、ぽつっと語った飾らない真理

作為の無い大きな謙虚を感じるのだ







この場所に行きたい...






だから

今は

つるかめ算から理数系の勉強し直しなのです











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成長のバロメーター 後縦靭帯

2010-02-12 | 竹斎先生
初めから少し膝を曲げて、バランスをとって立ってみてほしい

そうしておいて体重を前に移動すると、、、当然体は前に倒れそうになる
その時、無意識にバランスを立て直そうとするのは
(既に膝は曲げてあるので)首

腕をバタつかせることもあるだろうけど
それより手前に僕らは首を使ってスッと何気なくバランスをとる
頭部を後ろへもってゆくことで前に傾いた重心をニュートラルに戻そうとする
後ろに重心が偏った時も、自然に首を使って頭部を前に出す

こういう動きにかかせない人間の首の後ろにある2本の靭帯
これが背中を貫いて腰まで届いてる

僕等の身体が前後左右にバランスが崩れた時
それを立て直すためには
この2本の靭帯を伸ばしたり縮めたりして
頭部や上半身の位置を倒れそうな方向と逆方向へもってゆくのだ




先生はハイハイから掴まり立ち
掴まり立ちから手放しへと
身体の重心をとるのが難しくなってくるにつれ
どんどん後縦靭帯が発達してきている



ずいぶん首の後ろの2本の靭帯が太くクッキリしてきた


ここのシルエットがのっぺりとして
2本の靭帯が浮き上がらない間は、肉まんみたいにムチムチして
ホントに「赤ちゃん」っていう感じがするけど
このラインが出てくると、この首の後ろを見てるだけで
何だか「幼児」という雰囲気がしてくる






ハイハイから掴まり立ちへ移行してしばらくした頃
先生はソファによじ登ることが出来るようになった

そしてまたしばらくして先生は
ソファから床に降りることも出来るようになった

でもそれは降りるというより、顔面から床に墜落するといった方がいいようなものだった

そして更に
この首の靭帯が太くなった最近では
不思議なことにソファから降りられなくなってしまったことを
ママが発見した


降りられなくてベソをかきながら親を呼ぶ

これは一回りして
降りることへの恐怖を身につけたのだ
とママが言っている


2本の靭帯が太く強くなってきたおかげで
ソファの上から落ちないようにバランスをとりながら
床を覗くことが出来るようになったのだ
だから
この高さから落ちたらどれくらい痛いか
そういうことも落ちついて判断出来るようになってきたということだろうか



表面的に見ると、一度出来るようになったことが出来なくなる
行ったり来たり寄り道したり逆戻りしたり
ちっともスムーズに成長してゆかないかのように見えることも
実はちゃんと成長の一歩一歩なんだということを
やけに太くなった首の靭帯が教えてくれる
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする