23日のラブヒゲに引き続き
連日、タカシさんと演奏させていただいきました
今まで何度も演奏に呼んでくださった入間市での
豊岡地区の学校9校のPTAの方達に対するレクチャー的なミニコンサートでした
7~8曲やったんですが
タカシさんとデュオで、こんなに曲数やったの初めてだったかも
なんか...
僕だけの演奏はシットリしがちですが
タカシさんの歌の幅があるので
演奏のスケールが大きくなってゆく
これって、その場に人の心の暖かさが広がってくような
そんな嬉しい感覚なんです
そして今回は、演奏以外にも音楽にまつわる質問コーナーが設けられていて
タカシさんだけではなく、僕も質問される、ということを事前に連絡いただいてたので
現場で自分がシャバダバにならぬよう一応答えを考えて行ったのです
音楽だけがメインになるコンサートでは無いことから
いつもとは違った角度から見詰め直す良いきっかけになりました
実際に本番では時間が押し、少ししか質問されなかったのですが
文字にすると自分はこういうふうに考えてるのか、と
改めて再認識するところもありました
ちょっとメモで残しておきます
【音楽】
人間が作ったものではないもの
自然音(風、葉音、波など、そういったものに限らず、人が偶発的にたてる音なども含め)
作為的に作ったものではない音が「そもそも持っている心地良さ」の元に遊ばせてもらっている行為
【ギター】
言葉以外のもう一つの伝達方法、道具
時には言葉より何倍も雄弁に語る事が出来る力を持っている
これが無く、ただ言葉だけで伝えて日々を生きていたとしたら
言葉では表現し切れない想いが多過ぎて
きっと自分は孤独に陥ってしまうだろう
【イメハ】
そんな自分にとって「もう一つの言葉」であるギター
このギターという楽器3台で、ハワイのスラッキーチューニングを用いて
アンサンブルするユニットに参加していた(現在休止)
これは言い換えれば、3人で、ギターという「もう一つの言葉で対話する」
という行為です
このユニットでの活動は、その面白さと難しさをとても感じさせてくれました
聴き手と語り手のバランスをセンス良くとらなければ
指揮者が居ないわけなので、滅茶苦茶になってしまう
朝まで生テレビの皆でガヤガヤ言い合ってる場面のように不快な音場になってしまう
この対話感覚を、日常の人間関係に無意識に当てはめて図っている自分がいるようでもあります
【エレキ、ガット、その他の演奏楽器】
マンドリン等の特殊な楽器を除いては、エレキもアコギも
基本的に同じチューニングを用いますが
しかしそれらはまるで違う伝達道具
例えば「言語」という括りに入るが
日本語、英語、フランス語、ドイツ語などなど
文法や名詞の由来など、どこかに共通点があるのかもしれないけれど
それら実際に日常的に使おうとしたら、それぞれをちゃんと習得しなければとても使えない
そういうことと同じ
因みに僕にとっての母国語にあたるものはガットギターです
これは、僕がまだ物心つくかつかないかの頃に、父が趣味で弾き、聴かせていたようで
その摺り込みが、子守唄のように僕の深い部分に残り
心地良い音の方向へ、僕を誘導してくれている気がします
【子供を持って】
子供はDNAの情報によって、生物としてベストだと思われる道選びを勝手にしながら成長してゆく
一見、親の目から見て、間違っているように見える事も
未来へ生命の糸をつなぐ可能性としては無駄なことは無いだろう
だから自分1世代の情報だけで、子供にとってのメリット、デメリットは推し量れない
こんなような発見を、日々、子供は感じさせてくれます
短絡的な表現ではあるが
「結局、子供に対し親は大した事は何も出来ない」なんて思うんです
悠久の時間の中で生物としてベターだと思われる積み重ねをしてきたDNA情報が
この現代という時空で、まだこれから先、未知の環境に対し万能というわけではない
その誤差が起きぬよう、少しだけ手伝うのが
今生に一世代だけ早く生れ出た「親」の役割
「親の知恵」なのではないか、なんて思う
こういった、自分の力、存在が、何ほどのものか、と思い当たるとき
謙虚が生まれ、感謝が育ち、自分の演奏の肥やしとなってくれる
【地域で】
人間一世代の情報量では、子供一人育てるのも大変であるから
人がより良く生きてゆくためには
何世代にも渡って受け継がれた良質の情報が必要だと思う
それは一言で言うなら「知恵」と呼ばれるもので
ネイティブアメリカンの価値観の一端に垣間見れるように
「真」の元に長く生きた人が本当の知恵を持ち、そこに統制の力が宿り
若い血気盛んな間違いも諭す力を持つ
子供に無理強いをせず、また
親が心から尊敬してる人(長老や師匠のような)に頭を下げる
そういう行為、その人との関係性を子供に見せて育てる、ということは
畏怖と謙虚さを子供の心に育てる事になり
こういったことが、イジメの問題や青少年犯罪の病巣の核に迫る事なのではないだろうか
近所で防犯の声なんかを掛け合うだけが地域的な交わりとはいえない
地域での交流の中に、良い意味での「」や「大家族」の雛形を当てはめて
縦横関係の尊厳を、日常の中で扱いながら関わり生きる
大袈裟な自治団体を作ったりするという意味ではなく
そういう尊厳のようなものが日常の近所付き合いやPTAなんかの中で
フッとが感じられれば、それで十分なんじゃないか、なんて思う、、が
実際にそういう豊かな関係性を地域の中に浸透させてゆくのは
心或る賢者が先導しないと、かなり難しいのかもしれない
【出会い】【人と】
人との出会いを大切にしながら良い関わりというものを育てて
その中で「自分らしく生きる」ということをシェアし合ってゆくことが素敵な大切なことだと思う
これら全て
決して大袈裟な所作を指していうことではなく
個人の心の中にボンヤリ暖かく宿る
そんなくらいの灯火で十分