Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

仲間

2010-02-12 | 記憶の風景



古い仲間に会った

1週間ほど前に
自分も出た二松学舎の馬頭琴コンサートに訪ねて来てくれたのだ



本番前に声を掛けられ
あ。。。。どこかでお会いしたことありますよね...と言いながら
グルグル頭の中で記憶をたどり
その人からの説明も受けながらすぐに思い出すことは出来た

思い出すと同時に
浦島太郎のような月日が、あっという間に20年ほど経っていたことにも気付いた





20年ほど前
「箱バン」という、飲み屋で毎日演奏する仕事をしていた頃
サポートやレコーディングの仕事なんかが入ると
箱バンには「トラ」と呼ばれる代理の奏者さんに
自分でギャランティをお支払いして入ってもらって
自分は外の仕事をしに行く、というシステムだった


訪ねてくれたのは、当時僕がトラをお願いしていたギタリストのSさんだった



同業者同士、同じ現場に入ることなんてまず無いから
僕は彼と一緒に演奏したことは、多分...無かったと思う

何度かご挨拶をしたくらいだったかと思う

でも挨拶...といったって...
自分が外仕事に行くのに頼んだトラのギタリストさんなわけだから
基本的には「会わない」はずなんだけど、どこで会ったのだろう...
どんな状況で会ったのだろう...
記憶が全く途切れているが
でもSさんの、人並みはずれて穏やかな風貌だけは記憶にしっかり焼き付いていた


穏やかで謙虚で、また非常にシャイな...

なんか
(こんな表現は失礼かもしれないけど)
生き馬の目を抜く都会のギュウギュウした人間関係やら時間の流れの中では
一番、損な役回りを背負ってしまいそうな静かな人...



今、何をやってるんですか?と、こちらから伺ってみると
某、有名な演歌の女性歌手さんの16人編成のバックバンドに在籍しているという

その歌手は一流の人だ

僕はその話しを聞いて、なんだか嬉しくなったのだが
Sさんを目の前にして上手く説明出来なかった


懐かしいだけではなく嬉しい想いも起こってくるのに、何を話して良いか咄嗟に浮かばない
結局大した時間話さず、片付けもあったし、名刺を貰って別れた

名刺を持たない僕は次の日
自分の住所やら電話、メールなんか一式を、彼から貰った名刺に記載されたメールアドレスに送った






箱バンという場所は給料も安く、演奏環境も決して良くはない
いってみれば下積み的な仕事なのだ

当時、その場所に入れ替わり立ち代わり入ってくるトラのミュージシャンの中には
そういう場所を全くの「踏み台」として捉えている人も居た
はなから軽んじていることが態度に出ているような

僕は、幸か不幸かギターを背負ったら
その場所が何処であっても何時であっても
お客さんが居ても居なくても妄信的に演奏してしまうので
自分が演奏しているその場所を(環境の悪い箱バンであっても)
そういうミュージシャンに汚された気がしたものだった


箱バン時代に出会ったミュージシャンの中で
Sさんは一切、そういった奢りを感じさせない人だった

そういう謙虚なミュージシャンが生き残っていたこと
一流の現場に携わっていたことが、なんだか嬉しかったのだ



自分の住所などと共に
訪ねてくれて懐かしくまた嬉しかったことなど簡単に記してメールを送った


Sさんからの返信はなかなか返って来なかったが
その返信が来ない時間の間に
彼のようなミュージシャン(芸術家)が何を考えているか
なんとなく感じられるような気がして僕は静かに待つことが出来た

この返信が1年後に返って来ても、突然10年後に返って来ても
特別不思議なことではないように感じられていた




そして昨日
返信をいただいた








僕にとって

人間には

大して話しもしてないのに
初めから信じられてしまうような人がいる




返信がすぐ返って来ない意味も

返って来た返信の中にある行間に込められた想いも

僕が勝手に信じていたものと食い違わない

やっぱり思っていた通りだった




それを、魂レベルの話としてするなら
今思い返してみれば、20年前に既に信じられていたのかもしれない








いただいた返信にまた返信をしたくなったが
僕は...
それをやめて、今こうしてここに書き留めている

Sさんは僕のブログを知っていると言ってたから
きっとこれを読むだろう

それを想像すると少し照れくさいものもあるが...
でも人間て、面と向かうと、もっと照れが膨らんで言葉が出て来なくなる


この再会が、どんなふうに嬉しかったのか
面と向かったら、しどろもどろになって言葉が出て来なくなって
きっと上手く伝わらないまま、この縁が終わってしまうだろう


そうなりたくないな...
そう思ってここに記すことにしたのだ




この記事を読んだ後
きっとSさんからは返信は無いだろう
(こんなふうに書かれちゃとても返しようがないですもんね)

けれど僕の中でこの縁は続いてゆきます




言葉にならないものが共有出来る相手と会い

久しぶりに言葉に出来ない部分で静かに会話出来た気がしたから






















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2010-02-12 | 竹斎先生



先生はまだ言葉を喋らない


まだ短い距離をつかまり歩きすることしか出来ない

移動の手段は相変わらずハイハイである


こうして言葉で表すと、2ヶ月ほど前と何も変わらなく感じるが
実際はもう乳児を卒業して普通の子供のような仕草を沢山するようになっている







ソファに座った親の足の間に割って入ってきて
クルッと半回転、後頭部と背中をグリグリ押し付けながら甘えたり

隣の部屋からやけに大きなハイハイの音が
パッタンパッタンと近づいてくるな、と思って部屋の入口を見てると
ニヤニヤこちらを見ながら登場する
目が合うと自分を見られてることを確認しておどけた態度をとる

左足は普通の動きなのに右足だけ牡犬の小便のように
一足運びごとに高く上げてハイハイしてくる




時々「おかあさんといっしょ」の動画などを見せるからか
テーブルに乗せたノートパソコンに興味を示して手を伸ばす
触るだけならまだ良いが、叩こうとするので
テービルの上に伸ばした先生の手を掴んで下に降ろす
降ろすというより、わざと邪険に払い落とす
落としておいて代りにパパの手を、チャッカリそこに置いてみる
と、先生はパパの手を掴んで、自分がされたのと同じように邪険に払い落とすのだ
それを何度も何度も繰り返してやりあう

先生とパパは、パソコンを巡って
こういう無言の攻防をほぼ毎日繰り広げている




先生がくすぐったがる脇腹や首筋を攻撃するとぎゃはぎゃは笑う
やりすぎると時々泣く
泣くくせにまた攻撃をせがむような誘いを仕掛けてくる

先生もやられてばかりいられないから
最近はパパが痛がることを明らかに面白がって仕掛けてくる
鼻や耳の穴に指を入れてエイッとばかりに引っ張る(これホントに痛い)

きっと男の子の好きな戦闘ごっこの始まりなのだ








今日、先生はパパと入ったお風呂の中で
パパがお湯をパシャッと叩くと水面に泡が出来ることに気付いた

泡のような小さくて丸い物が先生は大好きなので
早速指先で摘まもうとしたら、その途端パッと消えてしまった

またパパがパシャッとやって泡を作ってそれを先生が摘まもうとしては消える

それを何度か繰り返したら、何かツボに入ったらしい先生はケタケタと笑い出した



この時点で先生はまだ
水面に出来る小さな泡はパパにしか作れないものだと思っている

その証拠に、かなりのウケてるのに自分の手ではパシャッとやらないで
パパが泡を作るのを待っているのだ


先生にも出来るってことを、どうやって教えようか
どうやって学び取るのか、その瞬間を見てみたいな、なんて思いながら
先生の腕を掴んで1回パシャッと誘導してみた

この1回で先生は見事に習得してしまった


自分の手でパシャッとやっても泡が出来ることを一瞬で知った先生は
その後パシャパシャ ケタケタ
パパと長湯をして遊びました





赤ちゃんにとっての「小さな初めて」の瞬間に立ち会えるっていうのは
なんだか感動する
そして穏やかな気持ちにさせてもらえる


僕等はみんな小さな頃から
こうやって点と点を線で繋げながら成長して来たんだな、と思う


















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定理

2010-02-11 | ギターの栄養






芸術家 < 求道者 < 太陽








この証明はいずれ









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闇の中から見る太陽

2010-02-11 | ギターの栄養


油の切れた大きな歯車が軋む音を立てながら止まるように
僕は遂に何をして良いかわからなくなった


無理をしていたのだろうか...
自問してみる



自律神経のバランスが崩れただけと
自分に言い聞かせてみる


それでも息苦しさは途切れることなく襲ってくるので
動けぬまま目ん玉だけで周りを見渡し
なるべく身近に置かれた救いの言葉を探した












サティシュの本に、太陽について書かれている一節がある。

「太陽は、完全に中立で超然としている」

「太陽は管理したり支配したりしない。
太陽は、ただ太陽だ。
太陽の光の下で、あるものはためになる本を読み、あるものは取るに足らない本を読むかもしれない。
あるものは隣人を助け、あるものは人を殺めるかもしれない。
これらの行為の善悪は太陽のせいではない。だから、太陽はどんなカルマ(影響)も積み重ねない。
太陽はこういうだろう。『光は私の性質であり、私にとって存在するとは輝くことである』と。
私たちにとっての夜が来ても、太陽は地球の反対側で活動し輝いている。
太陽はいつも輝いているが、誰も太陽が働いていることには気づかない。
太陽はすべてのものを行動させる。
牛に草を食べさせ、鳥を鳴かせ、商人に店を開かせ、農民に畑を耕させる。
だが、もし誰かが起きないでカーテンを開けなかったとしても、太陽は彼らを無理には起こさない。
太陽は存在するだけで十分なのだ。
太陽は完全に、行為するよりも存在するという状態にある。
太陽は光を持っているのではない。太陽は光そのものだ。
太陽は善を行うのではない。太陽は善そのものだ。」

「太陽の静けさこそが世界を動かす」



サティシュ・クマール『依存の宣言』
第12章 太陽から学ぶ 151ページ。








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未知なるもの

2010-02-10 | ギターの栄養


(乱文メモであるが...)



ここのところずっと哲学書のようなものに触れていた

もう大丈夫だが
そのきっかけとなったものは人間不振である


全ての人間では勿論ない
ある一握りの人間との関係性が崩れたことによって
全ての人間に分け隔てのない音楽を理想のように感じている自分は
脆くも崩れさるのだ

音を奏でる力を根こそぎ失ってしまいかねないところに追い込まれてしまう


全ての人間に分け隔てのない音楽、というような
こういった理想は
自分の現実逃避的なロマンチシズムから生まれてることではないかと
うすうす感じてもいる


ずっと長い間こういう繰り返しをしているが
このジャンルに関して自分の中での成長感が感じられない



今まで触れた事の無いジャンルからの教えを求めて
哲学の領域に踏み入ってみたのです





全ての事を問うて行く哲学によって気付かされたことは
「哲学では世界の真理を言明できない」ということだった

真理とは一段上のレベルから言明されなければならないものであり

世界の真理を言明するということは
全てを含む、と定義されたこの世界より一段上のレベルで為されなければならない
そのレベルとは神の領域である

言明できるのが神だけなら
もはや我々人間には語るべきなにものもなくなってしまう


科学の成果を語ることはできる 
文学を読むことはできる
が、神によって奪われた哲学のために
我々は科学の成果 ”について” は語ることはできない
この文学が何を語ろうとしているのか ”について” は語ることはできない

それらを語ることは既に哲学の領域であるし
それは学問の領域を超えて、命を営むことに密着していること

哲学は我々が世界について考えるためにこそ見出されてきた技術であり精神であるのに
一段上の神からしか言明出来ないとするなら
真理の追求という、人間にとって追い求めて止まない誘惑を断念し
日常性を持った事実性の探求において哲学は語られるべきであろう、と

真理、というものは
普遍の一つの回答を持つものである
その回答と異なる回答を持った者は「間違いを犯した」ことになる

そうではない
「その人がこう感じた」という全てのその人たち無限通りの事実を認め合うために
「真理」という万人に当てはまるたった一つの答え探しを捨て去り
それぞれの事実性を認め合う中で哲学は語られるべきである
といった内容だった


狂言ではない現実の苦しみの中から生み出された論理であると感じられる
この哲学者の論理は、僕にとって非常に感慨深いものがあった



自分がブレたくないために
「真理」というものを探し続けていた自分がいる

僕にとってずっとしてきた「真理の探究」という欲求は
今、すぐ断ち切れるものではない

その欲求にギリギリまで答えてくれるのは数学ではないだろうか...
ここのところ漠然と感じていたことである





哲学から見切られた真理の探求に今
ぎりぎりまで迫って行けるのは数学だけではないだろうか、という妄想の中
そういう書物など読んでみたくなっている

それも、今までに完成され、整理された数学ではなく
それらを経過した後
現在進行で生まれつつある数学の領域に触れてみたいのだ



神の手の中にのみ普遍の真理があり
人にはそれを扱うことが出来ないならば
人によって見つけ出された一番美しいものを用いて
そのギリギリ近くまで行ってみたい、と思うのだ






僕の音楽を形成してきた僕の後ろ盾は

ここにきて一度解体され、もう一度構築され直すことになるのだろう




どんな音色に変化して行くか、想像もつかない



ただ、再構築された暁には、更にポピュラリティが増している事を願いつつ...

である















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天の邪鬼

2010-02-09 | 竹斎先生


膝の上に乗せて離乳食を与えているときとか
僕ら親が食事をしているときとか
先生はテーブルの上を叩いてバンバン音を立てることがよくある

一つの小さな「抗議」なのだろうと思う

遊びとして床や物などを叩くこともするが
それとは何かニュアンスが違う
この行為には明らかに「抵抗」の要素が含まれている

遊びとして叩く場合は、親の方を楽しげに見ながらやるが
抗議として叩く場合は、こちらの方は頑といっていいほど絶対見ない

スプーンで口まで離乳食を運んでもらい
それはそれで美味しそうに食べているくせに
「飯を貰ったって魂の安売りなどするものか」
といわんばかりに決してこちらの方は見ない



抗議する理由は、その時その時で様々だろうけど
例えば、最近しっかり立てるようになり
背伸びをすると少し見えるようになってきた食卓の上には
いろんなものが雑然と乗っている

抱っこされた時は、親の膝を踏み台にして
興味を持ち始めた食卓の上によじ登っていろいろ遊びたいのに
親がそれをさせじと押さえ込むように抱くからイラッとする
だから叩くとか

親というものは自分の望むように100%自分を見てくれてはいない
そういうことへの抗議として
親が自分に食事を取とらせたがってる事は、一つのパターンとしてもう覚えているので
その行為に抗うことで親を困らせ、自分の存在を一段階濃く印象づけようとするとか

とにかく何かの不満の現れとしてやる



その叩くという行為を正面から止めさせようとしても絶対止めないので
むしろ一緒に叩くことにしている

叩きながら更に歌を歌う
「サッちゃんの歌」の名前のとこだけ先生の本名に替えて歌う

更に、必ず先生が叩いてるテンポに合わせて歌う


自分の名前が頻繁に出てくるこの曲を聴きながら、しかもテンポも同じ

当然、自分の事を歌ってるんだろうな、と先生は感じるので
自分に注目を集めたい、という一つの目的は達成され
更に親を困らせる行為を一歩進化させる行動に出る

叩いてる手を急に止めるのだ

先生が手を止めたら、こちらも歌うのを止める


この攻防を繰り返すうち、先生は自分が指揮者となって、
他者(この場合は父親である僕)をコントロールする面白さを感じるようになる


バンバン叩いてる手を止めると同時に歌も止まる
その時先生は、してやったりという表情を浮かべる

こちらは先生が激しく叩いたら激しく歌い、弱く叩いたら弱く歌う

こうして単なる不満を、なんとか生産的な行為へと変換していってみたいのだ


因みにこの遊びは大分前からやっているので
最近ではフォルテやピアニシモの指揮にも熟練してきた先生である







僕にとって、赤ちゃんという生き物の興味深いところは
僕等大人の原型を見せてくれる、ということに尽きる


生物学の専門的な見地から見たらどういうふうに表現するのか知らないけど
とにかく人間ていうのは「好奇心」が原動力になっていて
今それが湧くものは単純に「好き」、湧かないものは「嫌い」

好きなものは、その行為を重ねて行く中で、他の行為と混ざったりしながら
また別な「好き」を生み出して行く

今、好奇心が湧かなくても、ふとした視点の変化でいくらでも湧くようになる

そして生まれる「好き」という感情は
誰か他者との関わりの中で、相手から認知されると急激に成長する
その成長は将来、必ずクリエイティブな行為を生むと僕は信じている

その瞬間瞬間の好奇心さえ封じ込めなければ
それだけで子育てなんてバッチリじゃん
と楽天的に思ってしまうのだ



ただ、赤ちゃんの場合
いや...
もっとずっと大人になって、手に職を持ったり何かのプロになるまでかもしれない

子供のこういう行動って
単なる相手の気を引くための稚拙な行為であったり
単なる「天の邪鬼」と呼ばれたり
大人の邪魔をする行為と扱われたり
社会性に欠ける行為と叱られたり
こういった「良くない行為」のレッテルを貼られがちかもしれない

でもその行為には「好き」の原型、「好奇心」という命の原型が内包されている


古い神話やら民話やらに登場する百鬼夜行の中で
「天の邪鬼」というキャラは、大悪党にも成り切れない
鬼と人間の中間のような存在で、どこか憎めない

死神のように命を奪うような大それた事もしない
人の心を読み取って悪戯をしかける小鬼である



先生は現在、明らかに
人の心を読み取って悪戯をしかける能力を持っている


親バカな話だが
このウチの天の邪鬼が、将来、
多少なりとも人様のためになるような気の利いたことを為すような成長を遂げるには
今、親として
うっかりすると「悪い事」と決められてしまいそうな「天の邪鬼的な行為」から
どんな面白い発展を導き出せるか
ということにかかってる気がしてならないのだ



こういうふうに
普段「良くない事」というレッテルを貼られるような事柄の裏にある
逆の可能性を見付けるのが僕は好きだ


一般論で「良い」とされてる子育てを一切せず
「悪い」とされることばかりやらせて
先生がアインシュタインみたいになったら、さぞ痛快であろうにと
親からしてバカな天の邪鬼的な妄想の中に居る








こんな話しを聞いた


アメリカでは
子供のうちに優しく育てて、大人になったら厳しくする

中国だったか(ちょっと忘れてしまい定かではないので
アメリカじゃないどっか別の国)では
子供のうち厳しく育てて、大人になったら優しくするそうで
二つの国は全く逆なのだが
統計を取っても、結局どちらかの方針が良い結果を得られるということは一切無いそうだ



親が一世代上の浅知恵を駆使したところで
子の持つ、何億年分の生命存続のDNAプログラムが
あらゆる困難の99.9999999999999999999999.........%を見事にクリアーしてくれる








僕の目論む「天の邪鬼転じてアインシュタイン計画」も

大した時間を有せず淘汰されることだろう



















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普遍

2010-02-08 | ギターの栄養


哲学史というものが起こってから2600年経つそうだが
哲学に於いての普遍的真理の発見は未だ為されていないそうだ

素粒子の集合体であるこの世界は
破壊と構築を繰り返している

エントロピーの法則もしかり
この世に普遍などありえない
今日の善人は明日の悪人
変化そのものがこの世の仕組みであり
その現象を一歩離れた視点から観ることで
皮肉な事に、そこに初めて普遍的な観念が生まれる

いつもどんな時でも
命の営みを模索する時
そこに必ず必要になってくるのはメタ的目線だ

もう一つ外側に視点を置く、という試み


そもそも音楽だってそうではないか

「僕は悲しい」という感情をそのまま表しても
周りは困って手を拱くだけだ

「悲しい、けれど、頑張っている」というように
本人の意識が一つ外側に出ると
初めて相手が関われるスペースが生まれてくる
「頑張っているなら力になりたい」というような共有が生まれる

音楽を奏でたり作ったりする行為とは、更に何段階か外側に出る行為と言える

悲しいという感情を楽器の音色や作曲などの音符に変換して行く作業過程で
幾つものメタ的飛躍を持たざるを得ない

こういうふうにして生まれる音楽というものは当然
相手(聴き手)が関われる幾つものスペースを含んだものとなる

だから共有の多い音楽は、日常的な言葉などより力を持っている

音楽に触れた認知症の人の、
長年の間に凝り固まってしまった筋肉がほぐれたりするのも
音楽がメタ的な視点からの産物だからだ

ということは逆もあり得る

メタ的視点を持ったものならば、
日常会話だって力を持つ事が出来る、ということも出来る

なにも音楽家や芸術家だけが感動を生み出せる魔法使いではない
一億総アーチストっていうことになる

そしてそういう意味で
アートという言語を使って僕は人間全部と友達になれるはずだが
実際はよく孤独に陥る

自分が孤独に苦しくなる時とは
1次元的な会話にしか出逢えないことから生まれる

メタ的多次元で(言葉でなくても良いから)
僕と対話をしてくれる生き物を
僕は常に探している


...恋、も良かろうが
いつか冷めるだろう


生きてる間、ずっと冷めない関係性、対話を
僕は探している



普遍など無い、という対話を
普遍的に出来る相手をずっと探しているのだ













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ゲンコツ山の狸先生

2010-02-07 | 竹斎先生


もうすぐ11ヶ月だけど
いつ頃先生は卒乳するのかな



と思ったら
おっぱいしてる先生の写真を無性に撮りたくなった





一般的には1年くらいで卒乳って聞くから
もうちょっとでこんな姿も見れなくなるのだろうか

ちょっと寂しい



恍惚として
どんな事をしている時より安心した顔
無防備の極地



シャッター音がするから
この顔は写真に撮られてるのをちょっと意識しちゃったかな

ホントはママのオッパイに当てている手も
無意識に揉み揉みしてモミジみたいで可愛いのだけど
おっぱいを載せるわけにはいかないから無念のトリミング写真である



授乳直後に虚ろにママを見詰める先生
ゲップ...

この眼差しには、人間的にママを慕ってる、っていうのだけじゃないものを
パパは感じるのです

もっと動物的な...なんというかもう少し切羽詰まった
赤ちゃんなりの食料確保的死活問題をたたえた眼差し、とでもいいますか...
ママのことをぼんやり貯乳タンクのように思ってるような...
またちゃんとお乳くれよな、頼むぜ、みたいな

この手の食料にまつわる野生の本性を、赤ちゃんてよく垣間見せる






そしてご機嫌に


ママのオッパイが何より一番の安定剤だもんね

こうやって正気に戻ってからはちゃんと人間ぽくママを慕ってゆきます





さぁ、、、オッパイ飲んで暖まったから
積み木を持ってお出かけの支度するぞ








ちょっと赤札堂まで行ってくるよ~







あ。。。。。

そうそう

ちょっと付け足しなんですが



先生をパパがお風呂に入れるときは、まずパパが真っ裸になります

その次にこっち向きに抱っこしながら先生の服を脱がす

その間に先生はパパの乳首を人差し指で触ってはヘラヘラ笑うのです


いつも吸ってるママのより何~だか小さいぞ
それにおっぱいのまわりにも毛が生えてるぞ
ってな感じなんでしょうな


何かをつかんでると安心するのか
いつも積み木とか広告の紙とか片手に持ってハイハイしてる先生
今日は左手にダシ用昆布
右手に靴下を片方持って
ハイハイの時にはその靴下で床掃除しながら移動してました














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大地穂

2010-02-07 | SUI(大地穂)

大地 穂


日程:2月14日(日)
時間:(1st)14:00~ (2nd)16:00~
場所:イオン上里/1F ふれあいコート
アクセス

歌とアコギのDuoで観覧無料のイベント出演です






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記念すべき

2010-02-07 | 竹斎先生




先生
立ち歩き第一歩

のための記念すべき第半歩であります






よた...








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2010-02-07 | ギターの栄養


僕は音痴なので歌は歌わない

コーラスもやらない



歌っても息が上がるばかりで気持良くなれないのだ

だからカラオケも苦手



「どーしても」と言われる時は
「歌っても良いのですが、お客さんから苦情が来ても責任持てないですよ」
と言うと、大体諦めてくれる



更に「どーしても」という場合は
アヒルが喉を絞められたような声を披露することになる

こうなるともはや人前に立つこと自体、破れかぶれなとこがある...^^;




ところが、こんな自分がつい最近
歌うことの気持ち良さを感じられる体験をした




それは、昨日の二松学舎でもやったのだが
「朗読すること」の中で持てた感覚なのだ




馬頭琴とのコンサートの時のみ請け負ってる朗読

僕は勿論、語りのプロではないし
普段の喋り方も滑舌が悪い

だからある時この朗読を、
とある事情でいたしかたなく請け負ってからというもの
どうしたら聴き手に届く語りが出来るか、かなり試行錯誤してきた

そしてある程度場数を重ね、慣れて来た頃に結局気付いたことは
ギターを弾いてるのと同じやり方を当てはめて朗読してた、
ということだった



情感に訴えるものが出てくるまで
「間」だの「感情移入」だの模索を繰り返す

それは決して答えの出ない作業で、本人がどこかで手を打たなければ
一生探し続けても終わりは来ない

でも、この作業をしつこくしつこく繰り返すと
遂に頭の中に映像が浮かんで1本の映画を見ているような感覚になってくる
そしてそうなればもう忘我の状態で勝手に口が動いてくれる

ギターをコントロールしてするのと同じように
自分の語る声が、自分自身のイマジネーションを掻き立ててくれるか否かを
自分に課した合格ラインとしているとこがある




しかし僕が朗読してるのは「スーホの白い馬」という民話、たった一つだけなのに
それは練習も含めたらもう百回以上読んでるのに、まだ映像が浮かばない場面がある

どういうふうに読んでも映像が浮かびづらい場所がある

その朗読の中に最近、ギターのBGMを当ててみたのだ





語りながらギターを弾くという行為は凄く難しいので
やったら良さそうに思っていたけど今まで避けていたのだが...

因みにこの民話の朗読は、叶高さんとご一緒させていただく時は
タカシさんが朗読なさるので、僕はBGMを担うことが出来る

朗読が進んで行く流れに
馬頭琴とかギターとか簡単なパーカッションなど
複数の音色をBGMとして、入れ替わり任意にその場面場面に当てがって行くと
声だけで描く朗読より、
また馬頭琴1音色だけでBGMを当てがうより、
場面場面の色分けがはっきりしてきて、ストーリーが立体的に感じられ
そうすると、このお話の中にどんどん引き込まれて行く




やっぱり自分が朗読する時にもギターのBGMが欲しいな...

前からそう思ってたことを最近やり始めてみた





話しの導入部と最後の下りの2カ所だけなのだが
それが入ることによって、急に話全体の立体感が増した

でもやはり難しくて
語りに感情移入するとギターの拍数を見失ってしまうし
ギターに意識が行き過ぎたら勿論朗読が希薄になってしまう

その異物感を自分の中で調整して行くと結局
コード進行の区切りの良いところに
語りの文章の区切りの良い分だけ当てがう形に自然となっていった

それは丁度、ギターの弾き語りをしているような感覚に近くて
朗読の文章があたかも歌詞であるかのように感じられて来たのだ



感情移入って、過剰にやりすぎると厭らしくなってしまう
でもBGMという形で音楽が合わさることで、過剰な厭らしさが緩和される
そこにBGM効果で更に映像も浮かびやすくなり、どんどん自分が入り込んでゆける

あたかも自分が弾き語りをして歌っているような感覚になって
気付いた時には山本譲二のように熱唱していた(朗読を)







こんな気持ち良い感覚なんて、今まで知らなかったぞ...


でももう知ってしまったもんね







ギターというフィールドでの知識が、朗読に新しいやり方を教えてくれた

これが自分の中でこなれた頃、またギターにフィードバックされるだろう




自分の中に作られがちなカテゴリー分けを取り払って感覚を自由に行き来させる
その流通が、大分スムーズになってきてる気がする

それが幸せに感じられる




結婚したこと、子供を持ったこと
自分の親が祖父母になった姿見ること

ギターを弾くこと、語ること、
そして歌うこと

相手の想いを受け止めること
そして触れ合うこと



そういうことたち全てが一つの歌となって
その歌を皆と歌いながら生きて行く

そういうふうに生きて行けば良いような気が、今している
















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トンネル絞め...という技

2010-02-06 | 良寛さん万歳


二松学舎での馬頭琴コンサートのためのリハーサルを
本番前日にした

公に触れて廻ってはいないが、まぁ...馬頭琴奏者は妻であるのでリハは家でやる

今ウチには10ヶ月の子供が居るので
両親とも楽器に集中することは子供が眠っている時以外は不可能なのだ
コンサートが決まったのは大分前だから、日にちはたっぷりあったのだが
リハの時間を捻出出来ないったらありゃしない

子供は大体毎日、午後に昼寝をしてくれる
その隙を狙って大分前からちょこちょこ音合わせはしていたのだが
前日には何としても、しっかりと集中したリハーサルをやりたい

万が一前日に昼寝してくれなかったら、仕込み不足でステージに立つことになる
そのことだけは避けたいので助っ人を頼んだ


両家に打診したところスケジュールが空いていたのは妻のお義父さんだけ
ということでリハの間、子供の面倒を見ていただくことになった





現役時代は語学の教師であったお義父さんはとにかく物静かな方で
気が付くと、ころがってる本なんかをスッと開いて
静かに流し読みしていたりする

きっと勉強自体が好きなんだろうな、と思う

現実で俗な会話をするより
書物の中の美しいものに触れていることを愛する口数の少ない人である


親戚が大勢集まる時などお義父さんはほとんど口を開かない

それは、そこで繰り広げられている会話を軽んじているからではなく
会話に、俺が俺がと割って入ることをしたくない人なのだ


昨晩明け方まで起きていた僕は、昼頃だらしなく起きると
もうお義父さんは来ていて、息子と遊んでくれていた


「おはようございます...もう来ていただいてたのにすみません...寝坊しまして...」
とかなんとかモゴモゴ言って顔を洗いに出た


普段口数の少ないこのお義父さんが、赤ちゃん言葉を駆使しながら
息子と無邪気に対話を繰り広げてくれる光景を見るのが僕は好きだ


僕が起きてくると、息子はやはり父親である僕の存在を意識して
顔を洗ってるとこにハイハイしてきたりする

こっちに来るからつい息子と戯れ合って、しばらくしてからふと
お義父さんが本を開いてることに気が付いた



子供との遊びに父親が大手を振って登場してしまったら
おじいちゃんはやること無くなっちゃうんだな...

特にお義父さんは
相手を前に立て、御自分を後ろに置くような性格だし

そう気付いて、そこからは息子がハイハイで近付いて来ても
今日は目を合わさないようにした


その後息子は、お祖父ちゃんに遊んでもらうことに集中
扉を閉めた向こうの部屋でずっとお義父さんと静かに過ごしてくれていた





無事リハーサルも終了
閉めてあった扉を開けて、また4人で過ごす

お義父さんが突然「トンネル抜けしようかぁ」と言いながら
足を少し開いて息子の前に立ちはだかった


僕は正直(え~...足の間なんてくぐらないんじゃないかな...)と思った

早速息子は嬉しそうにハイハイでトンネル抜けをし出した

ニコニコ笑顔で何度も繰り返している


何度目かトンネルをくぐりぬけようとした息子の身体を
お義父さんが足を使って挟んだ

すると息子が声を上げて笑った



(へぇ...こういうので赤ちゃんて喜ぶんだ...知らなかった...)


サーカスとかの訓練されたプードルが
飼育係が歩く間を縫って又くぐりの芸をするみたいに
息子はきゃはきゃは言いながらトンネル抜けを何度となく繰り返し
お義父さんの足で挟まれながら驚喜の雄叫びを上げていた


僕はこの素敵な技に「トンネル絞め」という名前を付けた





お義父さんと、その娘である妻との間にいつも漂う
親子ならではの照れや諦めや見栄なんかが醸し出す
何となしにバツが悪いようなシラケたような空気を感じながらこう思った



かつて娘が赤ちゃんだった頃
きっとお義父さんはこの技を娘にかけたに違いない

そして娘が成長し、言葉を喋るようになり出したら
このシャイなお義父さんはもうこの技を封印したに違いない


だから、娘は何も覚えていない

自分がどんな風に愛され、どんな風に遊んでもらっていたか...




よく言われることだが
孫、という存在が、親とその親である祖父母の間の
長年にわたって固まってしまったものを解きほぐしてくれる



トンネル絞め、という技は

赤ちゃんがかけられて喜んでる様子を呈しながら
実は
掛けてる祖父母と、それを見てる親の両方にかけられた
ほぐしの技だったのかもしれない


















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拭き掃除

2010-02-05 | 竹斎先生





こういうモップってあるでしょ
拭くとこが紙で、汚れたらその紙を付け替えるやつ



ママがそれで掃除をすると、先生は拭いてる場所にハイハイしてきて座り込んだり
ゴミなんか集めておくと、そのゴミの真ん中をハイハイで蹴散らしながら通過してったり

親の意識が働いてる場所に身を置くことで
「僕を見て」と言ってる


そういう時期がしばらく続いてたと思ったら
最近先生は、遂に新しい遊びを編み出した



小振りな絵本を雑巾代わりにして
家中の(かなり隅の方まで)拭き掃除してくれるんです































だから最近は
お掃除ロボット「ルンバ」と呼ばれています






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雪 2/2~3@山中湖st

2010-02-04 | 過去の制作日記






雪...




生まれも育ちも東京もんだから
見慣れぬ雪が積もっているだけではしゃいでしまう


こんな村みたいなとこに入ってきて


ここに着いた


ビクター山中湖スタジオ


建物の中に入ると、まずロビーにコイツが居た


今日はコミネリサちゃんのレコーディングでここまで来た


コンソールルーム


レコーディングブース


steinwayのPfには5本のマイクが立てられてた
AKG414×2とneumann49×2と
あとアンビに何か判らない縦長のやつ


ボーカル用にneumann67
歌が上手に録れるよう、おまじないに毛布で仕切ってある


僕のギター用にはneumann67と、どこか判らないリボンマイク×2


こういうマイキングをされたのは初めてだけど、とても良い音でした


録音しながら、ブースの窓から外は雪景色が見える


そして歌う人はこの人


そしてレコーディングの合間に譜面を書く


譜面を書くリサちゃんをパパラッチするのはアレンジャーの江口氏


レコーディングの合間に外に出てみると雪がモコモコ積もっていて
ついはしゃぎたくなる


あっ...
すごいツララ


ツララをパパラッチするのはやっぱり江口氏


軒からもツララ


その中で一番長いやつを折って
「一角獣」とか言ってるのはやっぱり江口氏


パンクバンドのボーカル、とかいってるのはやっぱり江口氏


吊られてとうとう何か面白いことをやりたくなった割に
何も出来なかったのは僕


そんなこんなで今日泊まるのはこのコテージ


皆はまだ作業してたけど、僕は終わったので先に就寝


おやすみなさい


次の日は晴れ
空が青い
聞くとこによると昨夜は5時まで作業だったとかで
皆まだ起きて来ないところリサちゃんだけ起きて来て...


一人で東京に帰る僕を律儀にも見送ってくれました
しかし...
朝から物凄い笑ってる...この写真


高速バスに乗って湖畔の風景を見ながら
この辺に住みたいなぁ、なんて妄想しながら帰って来た


詳細はまだ聞いてないけど
今回「オレンジの月」という曲
リサちゃんの歌と僕のギターだけ、という編成で録りました





たまたま降った雪のせいもある

2/1に恵比寿で開いたものが、そのまま継続してるのもある

静かでありながら
研ぎすまされた時間の中
良いテイクが残せたと思う









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2/1 広田圭美ソロライブ後記

2010-02-03 | 過去のライブ後記

2/1のライブが終わって、もう数日経ってしまいましたが
感じたこと、思うこと等、書き留めておきたいと思います

まずは何より、このライブに足を運んでくださった皆様
心より、ありがとうございました



次の日僕は、山中湖にあるスタジオまで一泊の行程でレコーディングに行きました
ギター1本持って高速バスに乗って行ったのですが
その道中、2/1のことを忘れないように書き留めておこうと
携帯にメモしたりしては、結局納得出来ず消して
レコーディングを終えてからもまたメモしたりするのですが
最後まで上手く書き表せなくて消してしまう...

今日帰りのバスでも考えてメモっては消し、ずっとそうやって繰り返し
最後には車に酔ってしまったのでバスの中で寝てしまいました




家に帰り、宅録仕事をしてお風呂に入って
タマちゃんのブログを読みながら
何故書けないかがようやく判りかけてきました

言葉にするととても入り組んだ表現になってしまうかもしれませんが
それらについて書き残すことで
今回のタマちゃんのライブに参加出来たことへの感謝と
このライブをしたことの意味を上手く言い表せたら
と思うのです


今回のライブは
どれだけ自分らしい音が出せるか、という大テーマがありました

こういう表現をすると、もしかしたら
「なんだよ
じゃ、ミュージシャンてのは普段から自分らしくない音出してるのか?」
と頭をよぎる方もいらっしゃるかもしれない

だけどビジネスに於いて音楽が掲げるテーマとは
得てして、食い付きの良さそうなキャッチコピーをまず掲げてから
後付けで、それに参加するミュージシャン達がそれに寄り添う

その行為は、時にミュージシャン自らの身を削ったり、無理を生んでゆく


例えば、稚拙な例だけど
クリスマス時期に
奏でるミュージシャンがもし、大好きだった恋人に振られ
一人で過ごすことがいたたまれず
クリスマスという存在に触れること自体辛い状態に在ったとしても
そんなことなどおかまい無く、必ず「クリスマス」というテーマは
ある種「恋人達の持ち物」のように演出されて扱われるように...



その時期、その日、そのライブの間の時間、1音出す瞬間
そういうところまで自分らしく在る、というのは
ホントはとてもとても難しいことなのだ


もう、タマちゃんがご自分でブログに書いていたので
僕も「そのこと」に触れても良いかな、と思うので
書き進めてみます



そもそも僕が訊いている今回のタマちゃんのソロライブは
彼女が身体を壊したり
もともと持っている病気の状態が崩れたり
そういうことがきっかけとなって
本当の自分探しのような行為としてのライブをする
ということだったのですが

このライブの中心的な位置にあるその「病」というキーワードを
「気楽には扱えない」ということが原因となって
僕は、ライブ手前にも後にも、上手く書き表せないでいたのです


普段、人前に立つ商売の僕等は
(例えばそれが風邪のような軽いものであっても)自分が病を抱えていることなどは
むしろ隠して、笑顔を演出するようなスタンスをとります

コンサートの手前に、身体の不調、病の告知などしたとしたら
その部分に同情が集まり、受け取る本来の音が歪められてしまう可能性もありますし
同情して良いか悪いか判断出来ない微妙な空気が生まれてしまったりしたら
お客さんを戸惑わせてしまう
その戸惑いは
お金を払って音楽を純粋に聴きに行きたいと思ってる人にとっては
雑念が入ってとても邪魔なものになりかねない

またプロという立ち位置の僕等に対し
本番に向けての自己管理を厳しく問うてくる方もいらっしゃるかもしれない

他にも挙げれば
いくらでも「病の告知」といった類のものに対しての
マイナス面は出てくるでしょう


これらのマイナス要因が確実に払拭出来るという確信が持てないから
ビジネスでは手っ取り早く「隠す」のだと僕は思うし
隠すことでコンスタントに80点を維持し
大失敗だけは避けようとするのだと思うのです

僕が今まで関わってきた現場の90%以上はこういう場所ですし
それにまた、こういうことは音楽業界だけではなく
他の職業でもきっと同じでしょう


でも音楽という芸術が
一番に力を持ち
聴き手の心を揺さぶる時とは
「その時の偽り無い自分をさらけ出せた時」なのです

だから
自分の音楽の力を落としたくなければ
病んだ時に、本当は隠してはいけない

でも、ただ「隠さない」というだけなら
それは軽薄な甘ったれた行為の領域を出ないと思います

では、「隠さず音楽する」ということはどういうことか、というと

それは
隠さなくても良いかわりに
ステージを担った側が必ず、リスナーを戸惑わせることなく
すっきりした場所まで誘導しなければならない
ということだと思うのです


これをするのがとてもエネルギーが必要だし
言葉にして説明することが大変難しい

だから普段、僕も「隠すこと」に疑問を持ち続けながら
「すっきり隠さないでいること」に踏み切れずにいるのです

でも今回は、言い切ってみれば「病」がテーマだといっても過言ではないのです

この微妙で扱いづらいテーマ
普段、腫れ物に触るように扱われがちなテーマ
扱いが難しいから、出来れば回避して通りたいテーマ

このことに真正面からぶつかろうとしたのが
タマちゃんが、自身の病をきっかけにして企画した
今回のソロライブだったということです


だから僕も
「隠さない」というスタンスをとらないと
どうしても今回のライブのことを書き表すことすら出来ないのです



...と


ここまでがやっと前置きです...





こういうスタンスで臨んだタマちゃんとのライブで
僕がどんなことを感じたか
高速バスの中で携帯にメモったこと等
この先に書きます





>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>










タマちゃんというピアニストの「伝えたい」という強い想いは
いろんなものを飛び越えて聴き手の心に飛んでゆく


僕は等身大の自分で居ることさえ出来れば
偽りのない心がきっと伝わると信じている


二人は違うスタンスを取りながら、2/1に同じ方向へ向かった


人間だから違うところがあることがまた良いことだと思いながらも
同時に僕は違うことを凄く恐れてもいる


それは
繋いだ手が離れてしまうことを何より恐れているのだ




伝えたいと強く念じるほど音は
普段やり慣れた形から崩れ
本番でいきなりリハーサルでは体験したこともないような形に変容する

その 見たこともない形の音を
今見たばかりなのに追い続けるだけで精一杯で他には何も考えられない

ちょっとでも気を許したら
立て直せないほど遠くに吹っ飛んでしまうかもしれない

だから恐くてしかたない


相手が置く音符の位置が自分の予測に反したら
自分の爪弾きは敏感に反応して、また自分の音も過敏に揺れる

揺れたらすぐ立て直す
揺れと立て直しがずっと繰り返されて、終わりが来ないような錯覚に落ちいる

その間合いを縫って相手が添わせてくる


一つの音符ごとに調整しながら
横の流れであるグルーブも気になる

気になるけど
一つ一つの音符への思い入れが強すぎて
もうグルーブまでとてもコントロール出来ない

ずっと大切にしてきた想いと、それを今感じてることと
それを音色に込めてゆくためのコントロールと
その一瞬一瞬をずっと繋いでゆく時間軸という横の流れというキャンバスへの描きと…

もう いったい今
幾つの次元を股がって奏でているのだろう

自分がしてる行為が良いのか悪いのかも客観視出来ない状態にまでなって演奏は終わった


終わった直後
まだステージ上に居る僕は
怖くて本当は顔も上げられない

今、奏で終わったばかりの演奏が良かったのか悪かったのか
全く判断がつかないのに大勢の人の前に立っているのだから



隠さず人前に立つということは
想像するより何倍も恐ろしく
本番前に、これから上がるそのステージを想像して
僕は久しぶりにキツイ緊張をした

けれど
ステージに立つ者同士、同じ舟に乗るわけだから
この緊張も、今の等身大のタマちゃんの精神とリンクしてる証なのだと
そう言い聞かせてステージに立ち
そんな自分たちを客観的に感じる余裕も持てぬ形で
ステージを終えた


...こんなふうにして

ステージは終わった...



だから

何を感じてもらえたか...

僕には、本当に想像も出来ないのです




ただ
こんなふうにまでなって演奏したってことが
自分の命を燃やすってことが出来たように漠然と感じられる

そういうことが、言葉じゃなく伝わっていたらいいな、と思う



もし、そういう伝わり方が少しでも為されてたら

病んでも尚、負い目を持つことなく
障害、と呼ばれるものなども、負い目を持つことなく
その人がそのまま居てくれさえすればそれで良い、と

「病」も「欠落」も、それは個性なのだと認識して
「隠さないこと」が市民権を得ることに繋がってゆける






ライブ本番の時間が近付いてくると

そして本番が終わった後も

僕とタマちゃんは殆ど喋らなかった




多分もうあの時
言葉の及ばない領域に入っていたのだろう

二人ともすごく恐かったのだろう



そして帰りも、ろくな挨拶もせぬまま雪の中を解散した

改めて礼儀正しく「お疲れさま」とか言う力も残ってない
そういうことが
むしろきっと最高の「お疲れ様」の挨拶代りだったのかもな...


2日経った今
ようやくそんな風に冷静に思える




こんな場に僕を誘ってくれたタマちゃんと

こんな中での音を聴きたいと思って来てくれた人達に

僕は改めて心からの感謝をしているのです













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