Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

小学2年生くんたち

2010-02-15 | 過去のライブ後記



先日、ウチに凄く近い小学校に
馬頭琴奏者の妻と出前授業に行った

車で5分くらいという異常な近さ

しかも仕切っておられたのはお母さん達だったから
後日、近所のスーパーで買い物なんかしていてバッタリ再会して
何となく気恥ずかしい想いをするかも、なんて想像しながら現場に入った



二松学舎でやった大人向けレクチャーコンサートの2日後だったので
失敗は無いだろうと安心して行ったのだが
大人を相手にするのと小学2年生くんたちを前にするのでは似て異なるもの
自分としては、発する周波数をどの辺に合わせたら良いか
ちょっと探ってるうちに終わってしまった感がある

そういった意味で反省していたのだが
今日、学校から、コンサート後の子供達の感想文の一部を送っていただいた

どれも可愛らしく、嬉しい気持で読ませていただいた中に
自分の気を引いたものが3つほどあった



「えんそうが風をよんでいるような気がしました」

「目をつぶった時、もうモンゴルに入ったと思いました」

「さいしょのきょくが、水面に何かうかんだような感じがした」




僕は、子供達の前で演奏と朗読をする時
演奏の「音」や、朗読の「声」を聴きながら
それぞれが好きにイメージを浮かべる行為
音と映像をリンクさせながら感じることを何より推奨している

「スーホの白い馬」も、朗読の手前には馬頭琴のBGMをあてがいながら
目を瞑ってモンゴルの広い草原の風景を想像してもらう誘導をする

あとはそれぞれが
想い想いに浮かべた風景が映画のように移り変わってゆく
僕としては、その妨げにならないような間合いで朗読を進めるだけなのだ



僕が子供の頃
何かをしながら別の何かをすると「ながら族」と言われ叱られたが
まさに「ながら族」の推奨

朗読を聴きながら音楽を聴きながら好きな風景を浮かべて
浮かんだらそれを捉まえて離さない
二つ以上の行為をリンクさせ持続させる




子供にも沢山の予定調和がある


コンサートで演奏してくれた見知らぬオジサンとオバサンに感想文を書くなんて
文が変な感じになっちゃって恥をかきたくないし
なるべく普段使い慣れた言葉を使って間違いのないように書いちゃいたい


「馬頭琴の音色が綺麗でした」
「スーホが可哀想だと思いました」など
予定調和的な感想も沢山ある

勿論
子供が感じたものが豊かであったとしても
言葉に変換する時にありきたりの表現になってしまう
ということもあるわけだから
こういった予定調和的な感想文をダメだとは全く思っていない

もう一歩進んで
大人よりまだまだ柔らかい頭を持っているのだから
子供なりの多次元的や俯瞰的な表現を聞いてみたいと思うのだ



気にとまったものを一つずつ、もう一度紹介すると



『えんそうが風をよんでいるような気がしました』

これは「音」や、目の前で繰り広げられている「演奏」という視覚的なものが
「風」という自然現象とリンクして感じられる、と言っている

二つの違うフィールド内のものをリンクさせて
一つのことのように感じるのは芸術の入り口
この子の文章は既に芸術作品なのだ





『目をつぶった時、もうモンゴルに入ったと思いました』

この今自分が居る場所(体育館)で目を瞑ったら
モンゴルの風景が「浮かんだ」のではなく「入った」と言っている
音を聴きながら目を瞑った途端、モンゴルの自然の中に自分が置かれている感覚になった
と言っている
音をステップにしながらイメージトリップを堂々とやってのけているのだ




『さいしょのきょくが、水面に何かうかんだような感じがした』

「最初の曲」とは歌詞の無いモンゴル民謡を演ったのだが
「水面に何か浮かんだような」とは
全くモンゴルとは関係無いキーワードだ

この日「モンゴル」や「馬頭琴」がテーマなコンサートが開かれ
自分達はそれを5時間目に体験するのだ、という情報は
子供達の中に先入観としてインプットされているはず
その「テーマ」と関係無いキーワードが浮かんだ、ということは
その時この子の精神が自由であったと言っても良いのではないかと僕は思うのだ

そうして生まれた作品は
どれも愛おしい芸術作品と呼べるのではないだろうか



我々の想いを継承していってくれる存在である子供は国の宝だ

自分が関われる狭い範囲ではあるけれど
全ての子供達の可能性を
これは良くてこれはダメとは言いたくない

予定調和的感想文を書いた子の頭の中に
どれだけ豊かな風景が広がっていたかは
出前授業という時間枠の中での僕等には検証出来ない
あとは先生や父兄の方に拾っていただくしかない

だが、この3つの感想文のように
既に小学2年生が生み出した芸術的な作品を
単に「国語の表現力の成績」として評価するだけではなく
芸術が持つ力を使って、人と人との関係性が豊かになってゆく何らかのカリキュラムなど
創作してみてはどうだろう、なんて思った


自分が、音楽という芸術のフィールドに在って
小学2年生の芸術的感想文によって心地良くさせてもらえるのだということを
感じている


小学2年生は
大人が十分に感嘆するレベルの
芸術作品を生み出せる力を持っている、という言い方も出来る


そして幼い子供に接し
彼等の天性の才能に驚かされる度に思うことは
我々大人も元々持っているはずだ、ということ

幼い頃、もともと自由だったものが
成長するに連れ、社会性と呼ばれるものの間違った解釈
過度の協調性などを摺り込まれ
孤独な中でしか成し得ない仕事というものが人間には必ずあることを忘れさせ
単純に群れから逸れることを恐れるようになり
自己規制するうち自由は錆び付いてくる

でも、その錆を落として再び自由な精神を持つようになることは
そんなに特別なことではない

そんな仕組みがあることに意識を持ってゆくだけで
きっとすぐに錆が融け始めるだろう











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Kaolune Cafe  3/19 (金)

2010-02-15 | 過去のスケジュール記録
【月夜唄】

口に入れたら弾けて消えてしまう
ソーダの泡のようなささやかな音

その泡一つ一つの弾ける一瞬が...ぼくらの宇宙

Kaolune Cafe+ (Kaolune /榊原長紀 Duo)





渋谷 WastedTime 

open18:30 start19:00
adv/1500+2order
door/2000+2order

出演順(敬称略)
01.TimeCamp (19:00~19:30)
02.Kaolune Cafe+ (19:40~20:10)
03.日比康造 (20:20~20:50)
04.ゴッチ (21:00~21:30)







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先生の世界

2010-02-15 | 竹斎先生




一日中、遊んで遊んで

パパもママも、もうギブアップすると
まとわりついてワンワン泣いて
暴れて怒って

でも結局最後はこうしてパパかママに抱かれて寝てしまう

先生の世界には今はまだ
ほぼ...パパとママしかいないのだ...








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人情ギタリストの非人情性

2010-02-15 | ギターの栄養


漱石がっている


小説に書き写す対象人物が泣いているのを
作者まで泣きながら写したなら
読者に残された選択はもう「泣く」というものしかない

故に、読者が泣かねばその作品は失敗であることにもなり
それはまた読者への目に見えぬ強要を強いていることにもなる

また、登場人物に自己の想いを投影しすぎることと
客観的な立場で書き進めることから生まれるそれぞれの内容は
同じテーマから出発したとしても明らかに違う

情感に訴える表現を紡ぎ出すことと
制作者の頭に血が上って感情に咽びながら表現することは全く別種のことである




更に漱石は云う

「作者が泣かずにいる」というスタンスで書くなら
「読者を必ず泣かせようぞ」という圧迫も無い
そういう作品が出来る


そんな不人情な作品が人の心を動かすことが出来るか
という人もいるだろう
けれど、写される者を「子」、写す者はその「親」として
そういう目線で書いてみるがいい

子供が転んで膝小僧を擦りむいたといって泣くものを
毎度親までが一緒に泣くものではない
そういう同情の仕方を親は子に対してしない
だからといって親が子に愛情が無いわけではない






漱石がいつも意識している
作品を作る時の作者の「目線の置き処」「立ち位置」
また、それを「非人情」という位置に置くことの重要性
このことを僕は自分の音楽に置き換えている


「非人情という名の俯瞰」をテーマにした作品「草枕」は
孤高のピアニスト、グレングールドのバイブルだった

濃さの固まりであるグールドに関しては好き嫌いが別れるが
ここまで精神論を徹底したミュージシャンは
他にはほとんど類を見ないことは確実といっていいだろう

グールドの風貌を見ても武満徹の風貌を見ても
はたまた灰谷健次郎の風貌を見ても
愛の高みに上り詰めた人達の風貌は皆クールである

そう簡単に泣いたり笑ったりしない
一見冷たい感情に見えるこのスタンスは
本質的には「他者への自由性の提供」という愛を必ず内包している
その愛を生産するために行っている自己内部での葛藤が風貌に滲み出ているのだ


多分、グールドが苦手な人は
その人にとっての音楽の存在価値を
その音に反映された魂の濃さに比例して受け止めているのではなく
もっと音楽を娯楽性に於いて楽しむ人なのだろう(良い悪いという意味ではなく)

かく言う自分も、若い頃はアクの強いジャコパスのプレイが苦手だったが
歳を重ね、音楽と人生を重ね合わせられてきた頃から
そのプレイが180度 違って聴こえてきた

ジャコが暴れれば暴れるほど泣けてくるようになったのだ
それは、そこにジャコの暴れずにはいられない何かしらの心の傷を感じてしまうからなのだ




自分はもともと泣きたい人間である
その想いが強く反映された音を奏でる人間である

出来うることならみっともなくも鼻水を垂らしながら
号泣しながら奏でることを目論みかねない人間である

号泣に我を忘れ奏でている間に
ライフルでこめかみを打ち抜いてもらったら
さぞ幸せな今生の終わりであろうと妄想して止まぬ若い日があった


こういう動機の「涙」であり「音」である

この自分の音色に共鳴し感涙にむせぶ人が在ったとしても
その裏側で息苦しい圧迫を感じる人が必ずどこかに居ることも感じているのだ


その点に於いての「泣くことの表現」に対して
歳をとるごとに慎重になってきた自分が居る



作者が泣きながら作った作品に集まるものは
内輪的同情票であることが多い

それがどんなに強いメッセージを持っていたとしても
狭い音楽だと感じてしまうのだ

勿論狭くたって音楽に間違いというものはないのだから
このスタンスはあくまで僕がとりたいと願っているスタンスだという話しである


ただ狭いと感じるものは狭いと感じる







あるミュージシャンが先日こう言った

「やっぱり精神論なんですかねぇ、音楽は、行き着くところ」


何を以て精神論とするかにもよるが
自己の内部での葛藤は
自分が進むべき方向を見定めるための羅針盤そのものであるから
そういう意味で音楽は、精神論そのものだといえるかもしれない

羅針盤を持たずに何処に向かっているか判る人など居ないはずである






全ての事柄に対して「何故?」という問いを投げかける哲学という学問の
学問する方法論を少し知り
数学の「解くための方法論」に少しだけ触れて
それらの浅知恵を漱石に当てはめ、納得し
また更に答えの出ないことを考え続けている


この出口の無い迷路に迷い込む行為は
僕の場合、不思議と音楽には逆に良い方に作用する



破壊と生産を繰り返すことが生命の根源的営みなのだ、ということを把握した上でなら
出口の無い迷路の中で終わりの無い葛藤を続けることは寧ろ「生産」と呼べる

そしてそれば僕にとって
音楽というフィールドの中で自由と愛を得られる一番生産性の高いの方法なのだ













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寿命

2010-02-15 | ギターの栄養

自分の音楽が相手の深くまで届いていたことを
思いもかけない方向から知らされた時

僕の中に喜びが満たされ


自分のこと   家族のこと

子供のこと


仲間のこと


音楽のこと




全身が茹だるくらい感じられて切な苦しい  









ゆっくり生きて感じられるものがある

生き急いでは感じられぬものがある



でも
生き急がねば全部感じるまでに寿命が足りない




ゆっくり生きて
そして感じ尽くしたいと願う





喜びに包まれた日にもまた
こうして答えの出ない中に居る




穏やかに迷路の中にいる


















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