Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

『Baby Booツアー追加公演@COTTON CLUB』

2008-07-31 | 過去のライブ後記
ツアーって、小さくて美しい花のようだと思う

種を撒いて
みんなで水をやりながら大切に育ててゆく

ぽかぽか晴れた日だけじゃなく
風の強い日もあったり

ちょっとでも水をやり忘れると
向こう側が透けて見えるくらい華奢な茎が
しなだれてしまうし
水をやり過ぎても根腐れするし…

愛情をかけて育ててやらねば、絶対に咲かない花






どの公演も手を抜かないのは勿論なのだが
ツアー最終日というのは、どうしても特別な気持ちが生まれる

千秋楽という名の綺麗な花を咲かせるために
それぞれが自分のやり方でパワーを集めてゆく
そして暗黙のうちに、お互いのそれを感じ合う
そんな時間が、会場でのリハーサルや楽屋に流れ始める



自分をヒートアップさせてゆく人

リハーサルで一度、熱を帯びてしまった気持ちが
本番で先走り、空回りせぬよう
ニュートラルになるまでクールダウンしてゆく人

誰かのペースにつられて
自分のペースが乱れぬよう、寡黙に過ごす人

誰が誰のことも干渉しない
一見バラバラなようで、でも、しっかり結びついている

それは、もしかしたら(ライブという時間と空間の中だけで言えば)
家族以上かもしれない

そして、あと少ししたら
それをステージに持って上がって
今度はオーディエンス全ての人達と繋がるために…




そして今日、最期のステージに綺麗な綺麗な花が咲いた




僕は、「音を寄り添わせる」という意識さえ頭から飛んでしまい
ただ無心に皆と同化していた

オーディエンスの皆さんの顔が
ヒマワリ畑の沢山の花のように見えた

小さいと思っていた花は
もっと大輪で沢山のヒマワリの花だった






ステージ上の視覚的なことは、断片的にしか思い出せない…


最初の方のアップ曲で、忍君と目が合って
笑い合ったあたりから先は
もう何も目に入っていなかった気がする

自然と、音だけの中に埋没していった




忍君の声がしなやかに
「空」をイメージさせるように高い高い場所を飛んでたな…

チェリー君のウイスパーは
フリーズされた「孤独」が、瞬間で粉々に砕け散ったような
無数の銀粉からなる霧のように
粒子となって心に射し込んできた

Foreverで、ユースケ君の濡れた声と絡まり合いながら
音の海を泳いでいるうち、何だか泣きたくなったんだったな..

Happy Birthdayで、ケンちゃんの慈しむような歌の「間」に
僕の手が勝手に反応して
ギターからも「間」が生まれてゆくことに心地よさを感じてた

ユー君が出してるグルーブに「奢ることのない健気」を感じて、
なんだか愛しくなってた

タマちゃんとは、ほとんどアイコンタクトを取っていないのに
音を置く位置が、どんどん重なり合ってゆく
きっと「今」
彼女も「同じこと」を感じていると信じられてた

2階のPAのところで、山田ナホさんが
音のバランスに神経の全てを費やして
卓のツマミに手をかけたまま
ステージの進みと完璧にリンクしてる姿を
僕は演奏しながらイメージ出来て
彼女を信じられていた








思い返せば
仕事として呼ばれたステージで、初めて涙したのも
Baby Booのツアーだった

出だしが「ため息は白く~」で
最期が「ら~らら~、ららら~ら~ら~ら~」っていう曲だったな…

その体験をしてから僕は明らかに強く、そして豊になった

いつしかBaby Booは
僕にとって特別な存在にまで育ってしまったようだ






精一杯の演奏を共有出来た相手のことは
男女に関わらず「恋人」のように感じてしまう

ステージ上を共にした仲間のことは勿論
客席で共有してくださった方達全て(顔も名前も性格も知らないのに)のことも
(ステージに返してくださる「気」を感じるだけで)大好きになってしまう

これは(ある意味)ミュージシャンの病気
だとも思う





Baby Booのツアーが、追加公演まで含めて全て終わり
「大好きな恋人達」にも、しばらく逢えなくなる

以前はそれが、無性に寂しく感じていたのだが
今は、全然寂しくなくなってしまった

だって
今日、感じた合えた共有は
感じた人の中に必ず残るし、ずっと残り続けると思えるから






こんな気持ちにさせてくれたこのツアーと
関わってくださった全ての方達に
心からの感謝をしつつ...




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『日々のアンサンブル』

2008-07-29 | 過去のライブ後記
昔からの知り合いであるドラマーの板垣正美氏の主宰するドラム教室が、
毎年夏に発表会を行う
その発表会で、ドラムを叩く子供達の伴奏をする仕事に呼んでいただいて
かれこれ5年目くらいになるだろうか

今日、その発表会だった

子供との演奏が好きだし、いつも興味深いものがある

だからこそ、子供と演奏する時
「手加減」したくないと、いつも思う自分がいる

子供を子供扱いすることにより
大人の価値観からの目線となり
彼等から発せられるピュアな信号を見落とすのが
もったいないのだ

子供たちは、自分の技量の未熟など意識もしていない
「プレイしたい」という、ただそれだけの想いが
十人十色の輝きを発する

それは本当に微笑ましい光景を生む



そんな子供たちの中で
毎年、一人か二人くらい
こちらが本当に気持ちよくさせられてしまう演奏をする子がいる

それは
「相手の音を聞いている」子なのだ

「聞こえてる」から、自然に「合わせる」意識が働く

合わせることは、調和を生む
アンサンブルの基本なのだ

技量の未熟から、乱れる場面もあるが
またすぐに、立て直す

何十年ギターを弾いている、大人の僕がしているのと
まったく同じことをしている

今年は、小学2年の小さな男の子が、
ドラムセットに埋もれるように、そんなプレイをしていたのが印象に残った

彼は、ドラムを叩かない普段の時間の中でも
きっと相手からの信号を「聞く」人だろう

なんだか嬉しい




まずは「聞く」だけで良いんだよな

それだけで、日々のアンサンブルは自然に生まれてゆく

僕も忘れないようにしよう

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『インナーワーク』

2008-07-27 | ギターの栄養
丸一日、声を発せず
なるべく微かな物音しか起てず
外界からの刺激に、極力距離をとり続けた日の、深夜

ピアニシシモの音量さえ
耳に暴力的に響くのでは、と恐れながらギターを手に取り
そっと1音だけ鳴らしてみた

サスティーンぎりぎりまでかけたビブラートが
静かな水面を指先で触れた時のように
柔らかな波紋となって広がり消える

僕の鼓膜は一気に粟立ち、
音の消えた後には、切ないまでの「余韻」が残った

たまたま押さえた高音弦での
♭7度の音程が、普段は気付かない色彩を放ちながら
耳にしみ込んでゆく

キツいテンションの和音が宝石を散りばめたように
どれも美しく感じられる


耳が「ピュア」なのだ


無意識なレベルまで染み込んでしまっている
自分の中の音楽理論を全て捨て去るつもりで
気の向くまま偶発的に、次々とテンションコードを押さえてみる

美しさを感じられる間は、その全てが音楽として成立してゆく

このまま曲になるかもしれない…
僕の中で、点と点が繋がりかかる






自分の音楽に必要な
ドミナントコードに使用する複数のテンションや
代理コードを多用した複雑な一時的転調
それに伴うアボイラブルノートスケール等の法則を
解析することにおいて、どうしても生まれてしまう数学的な作業に
今までどうしてもドーパミンが分泌されなかった

音楽理論とは、先人が残した素晴らしい楽曲やアドリブ演奏を
解析し、後付けされたものなのだから
(勿論、理論という形にまとめあげたという功績にも、多大な敬意を払いつつ)
先人が引いたレールの上を
ただ「なぞる」だけでは、面白いわけがなかったのだ

勿論、偉そうなことは言えない
僕も散々なぞってきたし
なぞらないなら、なぞらないなりの
自分からの代替え案を、今まで見付けられなかったのだから

でも、こういう感覚から「入って」ゆけば良いのではないだろうか…
沢山あるだろう中の、一つの「きっかけ」として




ワーグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指環」4部作は
全曲の演奏に16時間程度かかるそうだ

独自のアドリブ方法論を生み出したJohn Coltrane は
My Favorite Thingsで7分を越える凄まじいアドリブを
(全身から湯気をたてながら)演奏している

それら伝説的な音楽(他にも僕の知らないものが沢山あるだろうが)
を生み出す力の源は
他者の軌跡を「なぞる」ことからでは、とても生まれるはず無いのだから


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「続 半睡」

2008-07-26 | ギターの栄養
薄いカフェカーテンを通して柔らかい色彩となった緑の
時々風に揺れる影が、さっきからずっと僕の網膜に映っている

時たまエアコンの微風に、小さなWind Chimeが微かに応える
僕の耳は一瞬、その虜になり
diminuendoしながら解放され、また自由を取り戻す

支配される安らぎから放り出された僕の鼓膜は
拠り所を失い、不安気に次の主を探す

途切れることのない都会のノイズが
遠くに聞こえだし
それもまたすぐ、意識の外に滲みながら消えてゆく




目の前2メートルのあたりを
半透明な白い空気が音もなくゆっくり流れてゆく

この時空で今まで何度も遭遇した「彼」に
今日こそ、その正体を問いただしてみる


それは
遠い彼方の上空で、世界を又にかけ、
雷雨と氷粒の大ストーリーを演ずる者が
啓示のために、己が体の一遍を、
細く長く、下界まで降ろしたものか

記憶の中に淡く点在する未完成な真理の、形無き魂たちが
今という透明な時空に
白墨汁の一滴を垂らしめ
悟りの手がかりを示そうとしたものか




気付けば、小さな二匹の猩猩蠅が
複雑な弧を描き、絡まり合いながら猛スピードで飛んでいる
いつか記録映像で見た、零戦とB29の空中戦のように

その芸術的「動き」に目を奪われる


命の存続をかけ、己のポテンシャルを使い切った動きとは
善悪を超えて只々美しい

そのポテンシャルを使い切り
何千年生き続けた屋久杉にも
空中戦で華と散った魂にも
人は「神」という座を贈る




しまった...

眠くなってきた...


虫に邪魔されアンテナの周波数がブレたのだろう...
また「彼」を捕まえ損なった



「彼」は捕まえ損なったが
かろうじて「虫」からの啓示を受け取る



あとはもう長閑な夏の小半日、
昼寝の体である

zzz...



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『半睡』

2008-07-26 | ギターの栄養


日々の喜びも届かぬ場所


日々の喜びより、もっと嬉しく
そして、もっと切ない場所



こんな処に一人で来るのは
きっと、一番素直な自分で「きみ」に逢いたいから




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『盟友』

2008-07-24 | ギターの栄養
先日、記事で「3次元的目線」のことを書いた


日常に起こりうる事柄を、そのままに見ることを指して1次元
その裏に潜む事情を加味して感じることを2次元
それらを俯瞰して真理を観ようとする感覚を3次元
とした


リアルタイムに繰り広げられてゆく現実での出来事に
ストレスを感じやすく
1次元は勿論、2次元世界での人との会話が苦手な僕は
一人「考えること」に埋没していることが多い


「考える」という角度から、3次元目へ辿り着こうとしている自分がおり
ブログに書く、という行為も
出来うる限り「3次元目を表す言葉」を探しているのだと思う






昨日、
以前から音楽で関わりのある青年が
僕のブログを「面白く読んでいる」と伝えてくれた


元々、音に生きる彼は「観念的な表現」に、どこか惹かれる様子だった


彼の持つアンテナが、僕のアンテナと、どこか通じていることを感じながら
そのことについて語り合うことは、勿論、心から嬉しいことなのだが
「日常の言葉」を用いた途端
「感じたこと」は「説明」へと形を変え
僕らの会話は2次元世界から抜け出せなくなってしまう


普段なら、そこで語ることをやめ
それとなく、一人のたたずまいに戻る自分である


しかし彼の語りの中には
3次元を言葉にして語ることへの難しさの現れである『微妙な間』
が存在していた


その『間』とは、逆に言うなら
「彼が明らかに3次元目を感じていて、それを大切に表そうとしている」ことの証でもあり、
そこに、アーチストとしての表現センスの良さと、
人間的な「あたたかさ」が感じられた





わずか15分程の時間だったが
2次元的でありながらも3次元的世界を感じようとする彼との会話が、
(日常生活において)2次元的思考に一人埋没したがる僕のスタンスに
多少の現実逃避が内在していることまで気づかせてくれた


こういう「気付き」が
僕という人間の骨組みさえも矯正し
あるべき姿へと導いてくれる、と感じられる






自分に大いなる「気付き」を投げかけてくれた、この青年に
僕は、心の中で「盟友」という座を贈らせてもらった


ただし
「日常の言葉」をもって、彼にそのことは伝えていない



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「缶蹴り遊び」~小林真人ピアノコンサート後記

2008-07-22 | 過去のライブ後記
「人間の手前に音楽有りき」
ではダメなのだ

苦しい練習なども含めて
音楽は下手をすれば現実逃避の絶好な麻薬である

かく言う僕も、若い頃は音楽に逃げ込む音楽中毒患者だった

ちなみに今は日常の中で音楽をほとんど聞かない
何となくギターをつま弾きながら、
自分や身近な人のこと等、言ってみれば音楽以外のこと、
いたって私的なことばかりを考えている
そんな時間が大事なんだということに、若い頃は気づけなかった



こんな感覚を共有する小林君とのリハーサルは
いつも僕の家で丸一日かけて行われる
が、その時間の半分以上は喋っている

時間が無くなり
「残りの曲は本番当日の現場リハで」
ということもしょっちゅうである



会話はいたって私的な事から始まり
自分たちが人間について感じる全ての事にまで及ぶ
「個」と「全」の間を行き来する会話に「愉快」を感じ合いながら
彼との関係は十数年続いてきた

その十数年分の会話の蓄積を
それぞれの道具である楽器を用いて繰り広げる
これが彼との「合奏」の本質かもしれない



そんな小林君が、絶対の信頼を寄せ
「Breath」というユニットで人生を共にしている
オカリナ奏者の大沢聡さんとご一緒させていただいたのは
今回2回目になる

エンターテイナーとして常に(失礼な表現を承知であえて記すなら「僕から見れば苦しい程に」)
オーディエンスを意識し、巻き込みながら全体の活性化を図る大沢さんと、
(言ってみれば)
周りの空気も気にせず、ギターとの対話だけを支軸に演奏を進める僕とは
表現スタイルの違いという意味でなら対極に居ると、いっても過言ではない

しかし、最初にお会いし
コンサート会場で行われた初リハ、1曲目の終わった時
彼の「音」には「彼の全て」が詰まっており
彼のエンターテイメントは「必然」だったのだと感じた僕は
一気に彼のことが大好きになってしまった

それを演奏の後、お互いのたどたどしい言葉で確認し合ってる様子を
大沢さんと僕を引き合わせた小林君が
嬉しそうに見ていた顔がまた忘れられない



こんなお二人との演奏はいつも、ドーパミンが大量に出てしまい
気付けば極度の集中に身を置き
演奏後は精魂尽き果ててしまう

コンサート終了後
会場近くに設けていただいた打ち上げの席で、
みんなの会話が弾む中
一人ボーッとなった頭で考えていた

僕にとってこの場所は「缶蹴り」に似ている・・・
いや、「缶蹴り」そのもの、なのだな...と




子供の頃
缶蹴りという、缶を蹴るだけの攻防遊びに熱中した

大人から見れば
無邪気な子供の遊びにしか見えないが、
本人たちの中では
本気で策を練り、本気で走り、本気で喜び、本気で絶望する

敵が企てる巧みな策へのジェラシー
走るスピードで負けることからの悔しさ
共同戦線を張って敵をやりこめるワクワク感
自分だけの策が功をそうした時のなんとも言えぬ満足感...

学校から帰ったら毎日でもやりたい遊びだった




大沢さんと小林君という
僕にとって最高の遊び仲間である、お二人と
缶蹴りという名の演奏を繰り広げていると、
最高のミュージシャンに対して感じずにはいられない
僕の中の「嫉妬心」さえも、
この真剣な遊びの中で
「真の音楽」に昇華されてゆく感じがする




笑いながら
堅苦しい明日の約束もせず
「今」という喜びを無邪気に興じ合う

どうせまた明日になれば
この場所に集まってきて缶蹴りをするに決まってる仲間なのだと
お互いが既に、どこかで感じている
そういう思いが
音楽談義をすら排除する




子供心に立返り、気付けばこんな妄想をしながらニヤついてる自分がいる

「またこの次会うまでに虎視眈眈と策を練ってやろう
二人を絶対に驚かせてやろう
それを考えると楽しくて眠れないくらいだよ

小林君
大沢さん

また明日
この場所で待ってるよ

缶は僕が持ってくから」




音からの刺激にとどまらず、その人の存在自体が、
僕の内側の深いところにまで届き刺激して止まない
僕にとって最高のミュージシャン
小林君と大沢さんに尽きない感謝の気持ちを贈りたい





>>>>>>>>>>>>

大沢聡さんのHP
http://fruits.jp/~osawaongakukoubou/

小林真人くんのBlog
http://masatokobayashi.blog66.fc2.com/
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『何故、僕が音楽で泣くのか』~僕の中のセンチメンタリズム~

2008-07-18 | ギターの栄養
昔から、音楽を「色」や「絵」のように感じる


メロディー、音色、和音、和音の流れ等から受ける印象を
色彩的に感じるのだが
色彩として感じる感覚は、音以外のもの
日常の出来事なんかに対しても元々ある


人間同士や、動物、植物や自然現象等から感じられる信号が
僕に与える「風通し感」「温度」「摩擦感」「圧迫感」等に対しても
色彩的に捉える感覚を持っている


この、日常と音楽にまたがる感覚が僕の中では、
どちらとも区別のつかないひとつの「色彩映画」
のようなものになって毎日繰り広げられている





この観念的な「色彩映画」は、リアルタイムにいくらでも形を変えるし
時空も、難なく飛び越えてしまう


過去の記憶にも「色というマーキング」がされていて
瞬時に、そこへ飛んだりする





「今」という感触と
「過去」という記憶の中の感触が
「色」という共通感覚で重なり合うことにより生れ出る
その「観念世界」に自分が包まれる時
現実では得られない、自由で風通しの良い世界に浮遊することが出来る


喜びの感覚だけに留まらず
「過去」の悲しい記憶や
「今」の息苦しさ等
ともすれば現実ではマイナス要素と扱われがちなものの一つ一つまで
綺麗な色彩を放ち
その映画を彩る大切な素材となる


そこに身を置くことから
美しい色達、一つ一つへの愛しさが生まれ
哀しみや苦しみという感情に対しても
「微笑む気持ち」が生まれる


過去の涙はこうして
「微笑みながらの涙」へと昇華する

現在の涙も
次の瞬間には過去のものとなり
いずれは昇華されてゆくのだ、と知ることで
「微笑みの涙」だと感じることが出来る




こうして僕の音楽は
今までも、この先も
愛しさという感覚を伴いながら
涙が止まらなそうなのだ

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『はにわ面(づら)』~人が好きで人付き合いが嫌いな自分~

2008-07-17 | ギターの栄養
一人の誰かが生み出す、たった一つのエピソードをとってみても
その人の事情やら背景やら、そのエピソードに関わった相手の事情やらで
いくらでも多面性が生まれてくる
(この時点で既に、「義」を見失い、大分身動きがとれない自分が居る)



また、それを見る僕が立っている次元や、置かれた環境からの作用
精神の成熟度によっても、沢山の見方が生まれてしまう
(この時点で、かなり自分を責めやすい脆く危険な状態の自分が居る)



そして複数の見られる側と見る側が、関わり合いながら営まれてゆく日常には
もう無限と言って良い程の多面性が生じる
(こうなってはもう、1ミリも動けない自分が居る)



だから結局のところ
「答えなど出ないのだ」
とか言ってみる



物事の仕組みが、あまりに多面的過ぎるという意味において
また、答えは出ないという意味において
「人は大方、迷子なのだ」
とか言ってみる 



だから大抵(迷子であることを、自覚するしないにかかわらず)
「人は多かれ少なかれ失言をし、失態を演じる生き物なのだ」
とか言ってみる



善かれと思った行為にも、別角度から見れば
それら失言的失態的要素は内在し
それらが生み出す作用は
どこか自分の知らないところででも
必ず誰かを傷付ける



その「小さな殺戮」を見たり
自分がしてるのを感じるのが嫌だから
かろうじて変わり者を装い
「僕は人付き合いが下手なんです」
とか言ってみてる


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「2六歩」

2008-07-16 | ギターの栄養




歩みが遅いと
自己嫌悪になった時


結果が出なくて
焦りに捕われた時


まだ見ぬ未来に心が臆し
足がすくみそうになった時


自分に言い聞かせてみる





たった1マス「歩」という駒を進めるだけで良いのだ、と







日常という名の、81マスの盤上に


無限の可能性と
未来に通じる「飛車道」が開かれることになるのだと





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『Kaolune Cafe』

2008-07-16 | 参加ユニット『Kaolune Cafe』




~ Kaolune Cafe ~

空気のようにナチュラルに
大切なものを共有しあう

小さな編成から
無限に広がってゆく音

にじみ合いながら溶け合う水彩画のような世界を...








デュオとして活動してきたKaoluneこと矢野かおり(ボーカル)と
榊原長紀(ガットギター)のユニットに
2007年、酒井太(アコースティックベース)と早川智弘(パーカッション)が加入
Kaolune Cafeを結成

アコースティックサウンドで、映画音楽やスタンダード曲などをカバーしている








R-Labレーベル所属
http://www.myspace.com/rlabrec



2008年、秋ぐらいにレーベルからの配信販売とライブを予定しています






矢野さんのポエムを掲載したHP〈Kaolune Cafe〉
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kaolune-cafe/

酒井太くんのブログ
http://fnd1972.exblog.jp/

早川智弘くんのブログ
http://blog.livedoor.jp/haryan/



こちらで視聴出来ます
~Feel like makin' love~I Wish I Knew~
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『ホーミーと馬頭琴の調べ』

2008-07-16 | 過去のスケジュール記録
「国際女性教育振興会茨城県支部設立25周年記念コンサート」

 『ホーミーと馬頭琴の調べ』


日時:10月16日 
開場 15:00
開演 15:30
終演 17:00


出演:叶 高(ヴォーカル、ホーミー)、横田 和子(馬頭琴)、榊原長紀(ギター)

主催:社団法人国際女性教育振興会茨城県支部

会場:茨城県守谷市御所ヶ丘5丁目25番地1
守谷市市民交流プラザ市民ギャラリー(つくばエクスプレス守谷駅下車)

TEL:0297-45-2278
http://www.moriya-koryuplaza.jp/index.php?id=31



問合:国女振茨城県支部長 見澤孝子さん
Mobile 090-1040-6788 
料金:500円




タカシさんHP


横田さんHP
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「かくれんぼ」

2008-07-15 | ギターの栄養




探しても探しても見つからなかった


幸せに向かう扉は




自分が一番触れたくない場所に


隠れてたんだよね

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「ちいさな空」

2008-07-12 | ギターの栄養


夕立の去ったあと、
小窓から見上げた初夏の青い空の向こうに
遠い昔の自分が見えた



夢中で遊び
生まれた服のほころびにも気付かずに
走り回り

いろんな友達と出会い


相手のほころびを直してあげて

僕のほころびを直してもらって




ほころびが
直ってないことにも気付かずに
遊び続けてこの場所まで来た







この時間は
終わることはないだろうが

今日
ちいさな青空の向こうに
走り回るちいさな僕が見えたのだ







おとなの僕が
それを見ていた



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「三つの和~欲望と知性と理性」

2008-07-11 | ギターの栄養
本能から生まれ出る情動を
野放しにすればするほど
僕の深い部分は活性化する


それは、危険きわまりなく
野蛮で生き生きとして
一見、軽はずみなようで

だけどそれによって僕は
本質を嗅ぎ分ける嗅覚を育てているのではないかと思う



それは音楽だけに限らない
全ての「欲望」に通じている




   

情動という第一走者のすぐ後ろにピッタリと
知性という第二走者を追走させる


情動という野蛮な獣は、ときに自らの生命力に身を焼き焦がす
そして傍で、美しく穏やかな微笑をたたえて佇んでいる知性に
いつのまにか恋をする
(でも彼は、知性には決して飼い馴らされない)



知性こそは魔性なのだ

その魔性のもたらす美しい吸引力から
情動という獣が逃れられなくなった時

二つは熱を帯び、絡まり合いながら
妖しい一つの快楽へと窯変し
その保たれた均衡は
至って常識的な顔をした「社会性」までも持つことになる




絡まり合うこの二者の間で
綱渡りを続けずにはいられない「欲望」を
僕は「理性」と呼びたい

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