Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

未知なるもの

2010-02-10 | ギターの栄養


(乱文メモであるが...)



ここのところずっと哲学書のようなものに触れていた

もう大丈夫だが
そのきっかけとなったものは人間不振である


全ての人間では勿論ない
ある一握りの人間との関係性が崩れたことによって
全ての人間に分け隔てのない音楽を理想のように感じている自分は
脆くも崩れさるのだ

音を奏でる力を根こそぎ失ってしまいかねないところに追い込まれてしまう


全ての人間に分け隔てのない音楽、というような
こういった理想は
自分の現実逃避的なロマンチシズムから生まれてることではないかと
うすうす感じてもいる


ずっと長い間こういう繰り返しをしているが
このジャンルに関して自分の中での成長感が感じられない



今まで触れた事の無いジャンルからの教えを求めて
哲学の領域に踏み入ってみたのです





全ての事を問うて行く哲学によって気付かされたことは
「哲学では世界の真理を言明できない」ということだった

真理とは一段上のレベルから言明されなければならないものであり

世界の真理を言明するということは
全てを含む、と定義されたこの世界より一段上のレベルで為されなければならない
そのレベルとは神の領域である

言明できるのが神だけなら
もはや我々人間には語るべきなにものもなくなってしまう


科学の成果を語ることはできる 
文学を読むことはできる
が、神によって奪われた哲学のために
我々は科学の成果 ”について” は語ることはできない
この文学が何を語ろうとしているのか ”について” は語ることはできない

それらを語ることは既に哲学の領域であるし
それは学問の領域を超えて、命を営むことに密着していること

哲学は我々が世界について考えるためにこそ見出されてきた技術であり精神であるのに
一段上の神からしか言明出来ないとするなら
真理の追求という、人間にとって追い求めて止まない誘惑を断念し
日常性を持った事実性の探求において哲学は語られるべきであろう、と

真理、というものは
普遍の一つの回答を持つものである
その回答と異なる回答を持った者は「間違いを犯した」ことになる

そうではない
「その人がこう感じた」という全てのその人たち無限通りの事実を認め合うために
「真理」という万人に当てはまるたった一つの答え探しを捨て去り
それぞれの事実性を認め合う中で哲学は語られるべきである
といった内容だった


狂言ではない現実の苦しみの中から生み出された論理であると感じられる
この哲学者の論理は、僕にとって非常に感慨深いものがあった



自分がブレたくないために
「真理」というものを探し続けていた自分がいる

僕にとってずっとしてきた「真理の探究」という欲求は
今、すぐ断ち切れるものではない

その欲求にギリギリまで答えてくれるのは数学ではないだろうか...
ここのところ漠然と感じていたことである





哲学から見切られた真理の探求に今
ぎりぎりまで迫って行けるのは数学だけではないだろうか、という妄想の中
そういう書物など読んでみたくなっている

それも、今までに完成され、整理された数学ではなく
それらを経過した後
現在進行で生まれつつある数学の領域に触れてみたいのだ



神の手の中にのみ普遍の真理があり
人にはそれを扱うことが出来ないならば
人によって見つけ出された一番美しいものを用いて
そのギリギリ近くまで行ってみたい、と思うのだ






僕の音楽を形成してきた僕の後ろ盾は

ここにきて一度解体され、もう一度構築され直すことになるのだろう




どんな音色に変化して行くか、想像もつかない



ただ、再構築された暁には、更にポピュラリティが増している事を願いつつ...

である















コメント
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