一瞬で浮かんでは消えていく、うたかたの言葉をつかまえたいのです。感情的だったり、理屈ぽかったり、あやふやだったり、それら生成消滅していく言葉、ぼんやりしたイメージを、明確に文章のセンテンスに落としこんでみたり、イメージや記憶にもっとも近い言葉をはめ込んでみたいのです。なるべく日常の言葉で、自分自身の思考でやってみたいのです。そんなことを考えたりします。
そんな「「批評」というよりは、むしろ日常的な感想に近い無防備な言葉で」かかれた対話形式のブログがあります。写真批評の竹内万里子、批評家・ギャラリーart & river bankの杉田敦によるCRITICA=CRITICOです。両氏のそのときどきに応じた関心、作品、思いがかた苦しくなく、やわらかい言葉で綴られています。例えばそれはこんな言葉です。
「わからない」ことから目を逸らすことなく、とりあえず、わからないまま引き受けてみること。そしてゆっくりと時間をかけてそれを生きること。外に開かれるとは、そういうことなんだと思いますし、アマチュアリズムというものもまたそうした精神的土壌から生まれるものなのではないかと思います。
(「寄り道だらけの」竹内万里子、2005.7.30)
いずれにしてもプロになると、業界用語、ジャーゴンに依存した判断停止と狭隘さを身にまとうことになります。もちろん、それと格闘しながら状況を切り開くことも大切なのですが、業界用語の通用しない外部を忘れないことの方が重要なのは言うまでもありません。けれどもさらに言えば、そのとき、そうすることで対象に対する「深み」を放棄してしまう場合も少なくありません。そうした困難な状況と向き合うこと以外に道はないと分かっていても、ついつい逃避したくなるのもまた偽らざるところです。
(「ヨーロッパから」杉田敦、2005.7.13)
いづれも「批評」という形式では、こぼれてしまう言葉たちでしょう。いま「批評」や「文章を書くこと」について考えるとき、竹内・杉田両氏のこの言葉はとても共感できます。この日々の葛藤や悩み、「わからない」ということまで含めて、真摯に美術や世界と向き合うこと。いまの私には、あせらずに「わからない」ことを引き受けて生きていくことしかできません。
CRITICA=CRITICO
そんな「「批評」というよりは、むしろ日常的な感想に近い無防備な言葉で」かかれた対話形式のブログがあります。写真批評の竹内万里子、批評家・ギャラリーart & river bankの杉田敦によるCRITICA=CRITICOです。両氏のそのときどきに応じた関心、作品、思いがかた苦しくなく、やわらかい言葉で綴られています。例えばそれはこんな言葉です。
「わからない」ことから目を逸らすことなく、とりあえず、わからないまま引き受けてみること。そしてゆっくりと時間をかけてそれを生きること。外に開かれるとは、そういうことなんだと思いますし、アマチュアリズムというものもまたそうした精神的土壌から生まれるものなのではないかと思います。
(「寄り道だらけの」竹内万里子、2005.7.30)
いずれにしてもプロになると、業界用語、ジャーゴンに依存した判断停止と狭隘さを身にまとうことになります。もちろん、それと格闘しながら状況を切り開くことも大切なのですが、業界用語の通用しない外部を忘れないことの方が重要なのは言うまでもありません。けれどもさらに言えば、そのとき、そうすることで対象に対する「深み」を放棄してしまう場合も少なくありません。そうした困難な状況と向き合うこと以外に道はないと分かっていても、ついつい逃避したくなるのもまた偽らざるところです。
(「ヨーロッパから」杉田敦、2005.7.13)
いづれも「批評」という形式では、こぼれてしまう言葉たちでしょう。いま「批評」や「文章を書くこと」について考えるとき、竹内・杉田両氏のこの言葉はとても共感できます。この日々の葛藤や悩み、「わからない」ということまで含めて、真摯に美術や世界と向き合うこと。いまの私には、あせらずに「わからない」ことを引き受けて生きていくことしかできません。
CRITICA=CRITICO
ものを書くことの困難に正直に 向かい積み重ねている文章 気に入りました。
これからも ちょくちょく覘こうと思います。