些か教訓的な物言いをすれば、大人とは大人の限界を教える者にほかならず、親や教師もまた親や教師としての限界を教える者でなければならない。さもないと、子供の問う行為が際限なく答えを要求することでしかなくなってしまうからである。大人や教師による答えの終わりなき供給が、むしろ子供を大人に答えを要求する者の地位に固定してしまうのであり、延いては大人になるということがおのれの問題の探索者になるということであることをも完全に見失わせることになってしまうのである。というのも問題は他者に求めて得られるものではなく、ただ二重に専心するより他にないものなのだから。二重と言ったのは、問題の探索に関する専心が同時に問題そのものへの専心でもありうるからである。親の限界や教師の限界を知る時、子供は大人になる決意をするのだが、時を同じくして、彼らは親や教師に聞いても得られないものを得ようと問題の探索を始めたり、問題に独力で専心し始める。
澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、27頁。
大人になるとは限界を知ること。
澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、27頁。
大人になるとは限界を知ること。
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