思うに、作家は世界に傾注している存在です。つまり、人間がいかに大きな邪悪さを発揮しうるかを認識しよう、受けとめよう、その面に回路をもとう、と努めている存在です。それでいて、その認識によって堕落させられる――冷笑的、表層的になりさがる――ことをよしとしない存在です。
文学は、世界とはどのようなものかを私たちに教えてくれます。
文学は、基準を与え、言語によって、また物語によって具体化された深い知識を伝えてくれます。
文学は、自分でもなく自分たちのものでもない存在のために涙を流す能力を醸成し、鍛錬してくれます。
自分でもなく自分たちのものでもない存在に共感できないとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。少なくとも何度か、我を忘れることがなかったとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。もし学ぶことが、許すことができず、自分たち以外の存在になることができなかったとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。
スーザン・ソンタグ『同じ時のなかで』木幡和枝訳、NTT出版、2009年、p.292
我を忘れて、「自分でもなく自分たちのものでもない存在」に傾注しよう。
文学は、世界とはどのようなものかを私たちに教えてくれます。
文学は、基準を与え、言語によって、また物語によって具体化された深い知識を伝えてくれます。
文学は、自分でもなく自分たちのものでもない存在のために涙を流す能力を醸成し、鍛錬してくれます。
自分でもなく自分たちのものでもない存在に共感できないとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。少なくとも何度か、我を忘れることがなかったとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。もし学ぶことが、許すことができず、自分たち以外の存在になることができなかったとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。
スーザン・ソンタグ『同じ時のなかで』木幡和枝訳、NTT出版、2009年、p.292
我を忘れて、「自分でもなく自分たちのものでもない存在」に傾注しよう。
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